「東南の風を吹かす為に、これより祈祷に入ります」
「は?」
我等の軍師はいつも突拍子も無い行動と言動によって我々を驚かす。今回もそれは例外ではない。
「ところで、何処へ行っていたのですか?」
「周瑜殿の元へ、策を授けに」
「……何やってんですか、貴方は!」
子龍(趙雲)は思わず声を荒げた。
今、何刻だと思っているのだろう? こんな夜も深く草木も眠る丑三つ時に、どんな策があって同盟軍とはいえ他軍に乗り込むとは。
「常識として、ありえない」
「なら、自軍なら良かったのですね」
「よくない!」
ぽん、と手を打って、そうだったのかと納得する軍師殿に、いつもの口調すら忘れて怒鳴る。そう、彼の主君劉備が三度訪問して引き入れたと言う稀代の軍師 ――と言う噂だ、としか今の子龍には言えない。――は、恐ろしいほどマイペースだった。マイペースな上に、観点がどこか人とずれている。
まぁ、その所為で言い出すことが常人から突き抜けていると言う時点で、稀代の人物の素質はあるのだと思いたいのだが。そうじゃないとなんども出向いた劉備殿が可愛そうだ。無礼だと思いつつも、短い付き合いで子龍はそう思わざるを得なくなっていた。
「真夜中に叩き起こしたんでしょう。怒っておられませんでしたか?」
「そうですねぇ……寝起きが悪い性質なのでしょう」
いや、絶対違うと思う。
子龍は叩き起こされた秀麗な司令官殿に同情しつつ、小さく反論した。すまぬ、左都督殿、私はもう疲れた。
「子龍殿などは、まだ起きておられるのに。周瑜殿は早寝なのですね――しかも寝起きは悪いし」「……表面上だけの同盟軍の大将を擁護するつもりは無いですが、違います」
「どうしてです? 現に……」
「私は夜間の見回りです。その為に人より早く寝ましたし、これが終われば人より遅くまで寝ていられる立場なのです」
総大将はそうではない。もしかしたら万事に備え、あまり眠れていないのかもしれない。子龍自身はそういった重い立場に立ったことがないからそうだと言い切ることは出来ないが、色々なものを見聞して来た経験から見て、そうなのではないかと予測できた。
忙しくて寝る間もない。眠れたとしても、今度はその重い立場から眠れない。そんな日が続いていても可笑しくなど無い。
「もしかしたら、久々の安眠だったかもしれないのに……」
「――りゅう殿、子龍殿」
そう思うと、気の毒でたまらなかった。菓子折りでも持って、謝罪に行くべきではないかと本気で考えてしまう。
「コタツ!」
「コタツ言うな!」
一番言われたくない渾名で呼ばれ、反射的に返してしまう。そこでようやく、子龍が思考に沈んでいる間、ずっと孔明が呼んでいた事に気付いた。
「……あ、いや、すみません。ちょっと思考にふけっていました」
「ボケるにはまだ早いですよ、子龍殿」
天然ボケに言われたくない――流石にこれは心の中だけに留めて置く。
「で、何です?」
「周瑜殿と約束しました。これより祈祷に入ります」
あぁ、そう言えば最初にそういっていたな、と思い出す。何の祈祷だっけ……確か、風を吹かすとか何とか……は!?
「出来るかんなもん!」
「出来ますよぉ」
もう、既に軍師と武将の会話ではない。脳の片隅に残っている冷静な部分がそう評価するが、はっきり言ってこれ以上「軍師殿」に敬意を払っていたら、とんでもないことが起きそうだ。
「私は、祈祷により雨を降らしたことがあります」
自信満々に、胸すら張って答える孔明に、義務感七、好奇心三で訊ねた。
「そこのところ、詳しく聞かせてもらえないか」
嫌な予感しかしない。
「申し訳ありません」
「いや、子瑜殿が謝ることではありません」
運悪く陣営に来ていた諸葛瑾が深く頭を垂れる。周瑜は笑みすら浮かべて彼の謝罪を断った。
「臥龍と呼ばれる弟君と戦術が一緒だと知ってむしろ安心しています」
まどろんでいた所を叩き起こされ、機嫌は悪いなんてものではなかったが、それを素直に表情に出すほど周瑜は真っ直ぐではない。それに、諸葛瑾に言ったこともうそではなかった。
「それに彼はその策を成す為の、文字通り追い風を起こしてくれると言っておりました」
「追い風……ですか」
策を聞いてもいいですかと諸葛瑾は控えめに聞いてくる。彼のことだからダメだといえばすぐに引き下がるだろうが、周瑜には彼に聴きたいことがあったので敢えてその策を話す気になった。
「その前に、弟君について尋ねてもよろしいですか?」
「……答えれる範囲で、ならですが」
大丈夫です、私も話せる範囲でしか話しませんから。そう答えてから彼はその疑問を口にした。
「東南の風を吹かす、と言っておりました。彼は、鬼道・仙術の使い手か何かですか?」
目の前に、あっけにとられた馬の顔があった。つまり。
「……ハッタリ?」
「いえ」
凍りついた表情は数回瞬きすることによって強引に解かす。しかし、まだ硬さの残る表情で彼は左右に首を振った。
「愚弟の事。成せる成せないは別として、本気で出来ると信じているかと。私が愚考するに、それは……」
「それは?」
「はい、それはおそらく……」
「私は雨を降らしたことがある」
なら、風を吹かすことなど朝飯前ではないか。
それが軍師の根拠であった。
「劉備様と出会う2年前、雨が数ヶ月降らない日が続いたのです」
自給自足の生活をしていた諸葛亮にとって、天候不順というのは生死を分ける。干からびていく土。日に幾度水をあげても、それこそ焼け石に水だった。それに、畑にばかり水をまわして入られない。人が生きるにも水は必要なのだから。
「だから、私は雨乞いをすることを決意しました」
「はぁ……雨乞い」
「そうです。そして数日後、祈りが通じついに雨は降りました!」
諸葛亮はこぶしを握って、夜空の星に負けないくらいの輝いた瞳で言う。その言葉に、自らの偉業に疑わない純粋な信仰を感じた。
この軍師殿の瞳の輝きを消すのは忍びないと思いつつ、子龍は控えめに沸いて出た疑問を投げかける。
「どのくらい、雨乞いを?」
「数日」
いや、そうじゃなくて。
「具体的な日数は?」
「さぁ?」
諸葛亮の答えはいたって簡単だった。
「祈祷に全身全霊をかけていたため、正味の日数など把握しておりません」
「あ――それは、もしかして……」
「もしかして?」
この天然な軍師の瞳の輝きを消すのは忍びない。子龍は一瞬うなだれて、すぐさま顔を上げた。
「いや、いいです」
「そうですか?」
「孔明殿もお疲れでしょう。私はもう一回りしたら交代の時間ですので、孔明殿もお休みください」
自分の口が、彼を傷つける疑問を投げかけないうちに別れるに限る。
あっさりと彼の口実に乗った、こういうところではひどく単純な軍師の後姿を見送って、彼は噂だけで聞いた秀麗な左都督を思った。
「遜呉と劉備殿。ふたつの存亡をかけた戦いに、我が軍師を全面的に信用してはなりません」
優秀なのだ。
多分、きっと、恐らく、万が一にも優秀なのだ、うちの軍師は。
考え付くことは突拍子も無く、しかしそれは誰の策よりも説得力があり、また的を得ていることが多い。
しかし、どうも2,3本抜けている。しかも、致命的なことが。
「雨乞いを、雨が降るまでやり続けるなら、そりゃぁ……雨は降るわ」
風が吹くまで祈祷を続けていたら、曹操の総攻撃が始まりかねない。
「成る程」
周瑜は諸葛瑾の話を聞いて深く頷く。
確かに雨が降るまで祈祷を続けるのなら、祈祷は成功するだろう。風が吹くまで祈祷をするのなら、祈祷は成功するだろう……そのまえに、我らがやられていなければ。
実兄に聞いてよかったと、周瑜は心の底から思う。
厄介なヤツだ。
何が厄介かと言えば、その祈祷が「祈祷したから成った」と本気で信じているボケっぷりが。
「頭はいい子だと思うのです。ひらめきも凄いし、間違ってもいない」
諸葛瑾は弟の弁護を始めた……かのように見えた。
「が、どうも大切な何かが抜けていると言うか、詰めが甘いと言うか、多分にボケていると言うか……ここ一番で失敗材料を見事に作り上げることの方が天才的で」
誰か気の付く人がしっかりとフォローしないと何が起こるかわからなくて、もう、失敗するとしたら取り返しが付かなくて、いつも大変だったんですよ……
完璧な愚痴になっていた。
「そうか、なんか、大変ですね」
周瑜は曖昧な笑みを浮かべて彼の愚痴を聞き流す。
丁度タイミングよく幕舎に二人分の茶を持ってきた兵士に、彼は声をかけた。
「伯言、調べ物をしてくれないか」
「ここの気候ですね。いつ、待つ風が吹くか……」
「話が早くて助かる」
周瑜はにやりと笑う。
「聞こえてしまいました。いつ入っていいのかわからなくて」
そう言って目の前に置くお茶からたなびく湯気が、その言葉を否定していた。多分、きれる彼はそれを周瑜が気付くことも想定済みなのだろう。
「孔明殿に華を持たせることは癪だが、こちらとて東南の風を待っているのは同じ。漁師などこの地域に詳しいものに話を聞いて、出来るだけ正確に調べてきてくれ」
「了解しました」
陸遜が二人に頭を下げて出て行く。出入り口の幕の前で彼は立ち止まり、笑った。
「その不思議な発想が、とても面白く、私は嫌いではありません」
「フォローに回る立場に成ればわかりますよ」
幾分うんざりとした口調の諸葛瑾に、二人は笑う。
「ま、まぁ、臥龍と呼ばれる人物と策を同じだったことが解った。それを収穫としましょう」
そう思えば、悪くない収穫だ。