嘘
「私は、カルーラ聖王国第一王女、アドルフィーネ・カエルレウス」
『アドル』が、そう言った。
「嘘だろ……信じられない」
エドは震える声で、それを否定する。
だって、ずっと一緒にいた。
疑ったことなどなかった。
「嘘じゃないよ」
男にしては高く、女にしては低い声が、はっきりと彼の言葉を否定する。
「私は、英雄ガイアの息子、アドルではない。カルーラ第一王女アドルフィーネこと、フィーネだ」
「嘘だっ!!」
だからと言って、簡単に肯定できるようなものではないだろう。それは、エドの人生の何割を、否定する事になるのだろうか。
「こんな場で、嘘など吐くものか」
ため息交じりでアドルは言い、大きな椅子から立ち上がる。
そして、ラクスラーマを思い出す深く濃い蒼の瞳を、まっすぐ銀髪の少年へと向けた。
「信じられないのなら、その証拠でも見せようか?」
「証拠?」
そう、とアドルは頷く。
「私が王女だと――女だとわかる、決定的な証拠を」
そして彼――彼女は、前閉じの上衣に手をかけた。
「え?」
アドルは、上から一つづつ、上衣のボタンをはずしていく。
「ちょ、ちょっと待て……アドル、落ち着け」
「何を言っている、私は落ち着いているよ。エドこそ落着け。証拠が見たいんだろう? それとも、真実など見たくない?」
確かに、上着をすべて脱げば嫌でもエドはアドルの言っていることが真実かどうかわかるだろう。手っ取り早く、確実すぎる方法だ。
アドルは上衣を脱いだ。長そでのシャツ一枚になっても、まだ彼女が彼女である証拠には足りない。女性だとしても、胸は大変小さいのだろう。
「やめろぉ!」
エドが必死で止めるのは、彼が真実を知りたくないからではあるまい。
それは、彼が紳士だからだ。
彼女がシャツに手をかける。
彼は、雄たけびをあげて逃げ出した。
紳士だから、淑女の裸など、見るわけにはいかない。
エドは走りながら、大きく息を吸い込んだ。
そして――
「ああぁぁぁぁっ!!!」
自分の叫び声で飛び起きた。
飛び起きたそのままの状態で、きょろきょろとあたりを見回す。見えるのは、見慣れたクリーム色の壁ではない。馴染みとなったセルペンの宿は、昨日引き払ったのだ。
「……豪快な欠伸だねぇ」
「あ、おはようございます」
すでに着替えて、大きな窓の横でお茶を飲んでいたシリィの言葉は、絶叫して飛び起きたフェイスに対する皮肉ではない。本気であれを豪快な欠伸と思っているのか、彼女流の冗談なのか、まだフェイスにはよくわからなかった。
「おはよう、フェイス」
シリィは立ち上がりながら、ポットから茶を注ぐ。もぞもぞとベッドから抜け出したフェイスに、そそいだ茶を差し出した。
「ありがとうございます」
フェイスは礼を言って、両手でカップを受け取る。
いつ起きて、いつお茶を入れたのだろうか。それは、だいぶぬるくなっていて、寝起きに飲むにはちょうど良い温度だった。
「――夢を見ました」
「ふぅん……」
一口飲んで、口を潤してから発した言葉に、シリィは気のない相槌を打つ。この反応は興味がないからではない。それが彼女の『素』なのだ。フェイスはそれを知っているから、気にせず言葉を続けた。
「びっくりしました。夢の中で叫んだと思ったら、実際に叫んでいたみたいですね」
「いつもの悲鳴よりはだいぶ控えめだったよ」
「…………そうですか」
両手にカップを持ったまま、フェイスは俯く。高くよく通る声を持つ彼女が興奮してあげた悲鳴は、向こう十軒にまで響き渡る――らしい。その割には、武器をふるうときの掛け声は、気の抜けた声だよね、とは誰が言ったか。
とにかく、寝ぼけてあげた悲鳴で、誰かが飛び込んでくるような事にならなくてよかった。
フェイスは息を吐いて、カップに注がれたお茶を見つめる。凪いだ水面に、自分の顔が映っていた。
大きな垂れた眼に、寝癖を知らないまっすぐな砂色の髪。
美人かどうかと言われれば首をかしげるが、性別を問われれば自信を持って女だと答えられる容貌。
フェイスが男の服を着て、男だと言い張っても、誰も信じないだろう。
なら、なぜ彼――いや、彼女は、皆信じたのだろうか。
大きな形の良い眼に白い肌、すこしだけ癖があるのふわふわと跳ねた空色の髪。
愛らしい顔つきは美少女と言って間違いない。それなのに、性別を問われれば、答えは分かれる。
彼――彼女の希望に沿うなら『彼』と言うべきであろう――は、半分は間違える、と言っていた。しかし、そんな人達も、彼が男だと言い張れば、それを信じる。
フェイスも、シリィも、信じていた。
なにより、幼馴染も信じて疑わなかった――
「なにを考えているんだい?」
声をかけられて、フェイスははっと視線をあげた。再び窓際の椅子に座ったシリィが、彼女を見て、興味深げに首をかしげている。
「よくわからないけど、大丈夫そうだね」
「大丈夫?」
あぁ。と彼女は小さな笑みを浮かべて頷く。
「口元、緩んでいるよ」
「あっ!」
フェイスは思わず声をあげて、両手で口を押えた。
――両手?
「あっ!!」
今度声を上げたのはシリィだ。その理由を、一瞬後に理解する。フェイスの膝が、お茶でびしょびしょになったからだ。
カップを持っているのに、両手で口を覆えば、カップは落ちる。中身はこぼれる。
当然である。
幸いなのはカップが割れなかったこと。こぼれた床が板ぶきなので拭けばすむことだ。
「やったね……久々に」
「やってしまいました」
シリィはフェイスの荷物からタオルを取り出して放り投げる。フェイスは床に落ちたカップを脇に寄せて、こぼれたお茶を吹き始めた。
拭きながら、フェイスは思い出す。
あの夢を。
口元も緩むだろう。あんな、典型的なラブコメのような夢。
アドルは言うだけ言って、でも自分は変わらないと宣言した。彼は、隠し事がなくなって、さぞ、すっきりしただろう。
一方エドはどうだろう。ずっと信じていた人物が違う者だと知り、思わず駆け出すほどショックを受けた彼は。
彼は、アドルが言った通りに「いままでどおり」よろしくできるほど、器用だっただろうか。彼は、魔法のような手先ほど器用に生きれる人間だっただろうか。
「ふふふふ……」
思わず笑いが漏れていることに、フェイスは気付かない。
床を拭く手が止まっていることにも。
セルペンを出てから初めての宿。エドは頑なに二人部屋を拒否した。
これから行くフラビスには、カルーラのように後ろ盾がない。だから、今までのような贅沢はできない。アドルはそう言って、男女別室――アドルとエド、フェイスとシリィ――の二部屋を取ろうとしたのだ。
アドルの行っていることは正しいが、エドが拒絶するのもよくわかる。本当に男なら、問題ないだろう。知らなければ、問題なかっただろう――でも、知ってしまった。
もう、無理だ。
アドルもそれはわかっていたようだ。全力で拒否するエドを見ている彼の深い蒼の瞳が笑っていたのを、フェイスは見逃していない。
彼女の眼は、エドの眼ほど節穴ではないのだ。
あぁ、それを見たからか。
だから、あんな夢を見たのか。
「ふふふふ……」
再び笑い声が漏れる。やっぱり、あの二人は、二人でいる方がいい。
見ていて楽しい。
二人が並んで、くだらないことを言い合っている。それだけで、フェイスは幸せになれる。
「――気付いていないようだから言うけど、漏れているよ、声」
シリィの指摘で、ようやくフェイスは自分が声を出して笑っていたことに気付いた。顔がかぁと熱くなる。
しかしシリィは慣れたもので、フェイスの百面相を全く無視した。
「床、拭けたらさっさとタオルは洗うんだね。染みになるよ」
「あ、はい」
フェイスは慌てて立ち上がる。そこで、自分がまだ寝巻であることに気付いた。
水場は外である。この格好ではいけない――なにより、ひざから下がお茶でびしょびしょだ。これも洗わなければいけない。
そっと寝巻を脱いで、服を着替えはじめる。
「でも、まぁ、最近ずっと元気がなかったみたいだから、ちょっと安心したかな」
神官用ワンピースのボタンをつけたところで、フェイスがポツリと呟いた。フェイスは手を止め、顔を彼女の方へと向ける。
「元気なくみえましたか?」
見えたね、と彼女は頷いた。
「何か考え込んでいるのはいつものことだけど、いつもと違うのは、それが幸せそうじゃなかったことかな」
でも、今は幸せそうだ、とシリィは笑う。それにつられて、フェイスも笑みを浮かべた。自分でも、さっきより全然力がないな、とわかる笑みで。
フェイスに元気がなくなったのは、シャフロン平野での戦いの、終盤で『彼』を見たからだ。
フラビスの騎士達と、フェイス、そしてフィーネに大きな衝撃を与えるだけ与えて去って行った彼――フェイスはずっと、彼のことで頭がいっぱいになっていた。
この情報についておそらく共有可能であろうフィーネ――アドルとは、ずっと会えなかった。当然、敵国であるフラビスの騎士は、とうの昔にピディスの向こう側へと帰ってしまっている。
だから、一人で悶々と悩んでいた。
悩んでもどうしようもないと分かっていても、ずっと彼の、魔物たちを率いるあの姿が、頭から消えなかった。
そればかりが頭にあって、彼女の大好きな空想の世界が入る隙などなかった。
しかし、どういう事だろうか。
確かに彼のことは、重い石のように心にのしかかっている。だが、今、それでいっぱい、と言う訳ではない。
「そうですね……驚きましたが、ちょっと、今、幸せです」
うん。幸せだ。
あの二人が並んで、くだらないことを言い合っている。それだけで幸せだと感じられるくらいには。
こんな妄想じみた夢が見られるくらいには。
「元気でました。ありがとうございます」
「それは、アタシにいう事じゃないだろう」
笑顔で礼を言えば、シリィが困ったように応える。
確かにそうだ。
お礼を言うなら、おそらくアドルとエドの幼馴染コンビ。
だが、それを言う訳にはいかない。だって、フェイスが笑えるのは、人には言えない空想の世界が彼女の頭に戻ってきたからだ。
「言うなら、フェイス自身の頭にじゃないのかい?」
「あ……」
フェイスはぽかんと口を開ける。その発想はなかった。
「アタシは、あんたの心に益体もない空想世界が戻ってきたのは、嬉しいよ――で、どういう夢を見たんだい?」
「ふふふふ……」
シリィは、フェイスの空想を聞くのを楽しんでくれる。だから、女性二人きりのこういう場が、フェイスは好きだ。
でも、ごめんなさい。
「内緒です」
「え……」
心底残念そうな声。不満げな表情。
そんなシリィに、法衣を着たフェイスはぬれたタオルと寝巻を抱えて背を向ける。スカートをひらめかせて。
ちょっと今日のは、口に出せるようなことではありません。
空想の世界には、人に語れるものと、語れないものが、ある。