勇者のための四重唱


せかんど らいふ 1

 本当に、行くんですか?

「何を今更。10年前から計画していたことだぞ」

 ……途中で飽きてくれればと思ったんですけどねぇ。

「本当に、そう思っていたのか?」

 いいえ。

 あるわけないと思っておりましたよ、はい。

 だって貴方は、その粘り強さに定評のあるお方。裏を返せば『しつっこい』『頑固な』お方。えぇ、諦めるとも、飽きるとも、思っちゃいませんでしたよ。淡い夢を見ていただけです。人の夢は儚いんです。

「思いっきり言うな……」

 言いますよ。それがアタクシですからね。

 それに、これからアタクシ達主従の二人旅。言いたいことを我慢していたら、胃に穴が開きますって。

「何!? それは困る。我慢せんでもよいぞ。言いたいだけ、儂に言え!」

 ええ。言いますとも。


 ……聞いてくれるとは思っちゃいませんがね。



 一年は二つに分けて名付けられていた。年の始まり立春から折り返しの立秋までを光の期、立秋から次の立春までを闇の期と。光の期始まりの立春は新年ということもあり、盛大に祝われるが、闇の期開始の立秋は、質素なものだった。光に属する賑やかさと、闇に属する穏やかさを良く表していると言ってもいいだろう。

 そんな期の変わり目でもある立秋に、生まれた男がいる。海と山によって外界から閉ざされたアークス大陸。その北部カルーラ聖王国の山間にある、エクウスと言う小さな領土の主だ。

 60年前の立秋に生まれた男は、エクウスを治めるために、親に躾けられ、弱冠二十歳で親から領土と爵位を譲り受けた。それから40年。穏やかで公平な治世により、領民に慕われ続けていた。

 ところで。

 人生の一回りを60年とする習慣がある。一回りを向かえる年を還暦と言い、特に盛大に祝われた。この習慣では、60歳からは二回り目の人生と言われる。これを機に稼業を息子へ譲り、第二の人生を謳歌する者も多い。

 立秋生まれのこの男も、例に漏れなかった。



 今年の立秋は碧月と紅月の満月が大地を照らす明るい夜だった。眩しすぎる月に照らされて、二つの影が、山を背にする小さな城から出て行く。

 その光景を、真っ暗な城の中で見守る者達がいた。明日付でエクウス領主の座と、男爵位を得る男と、その妻。そして、彼らの子供にしては少々年嵩の少年だ。

「……父を」

 青みの強い紫の髪を持った新領主は、窓越しに去り行く人影を見ながら、口を開いた。

「父を、お願いします」

 去り行く影は、彼の父であり、この地を40年間治めていたヒサムル男爵家の主ギルベルト。そして、その片腕である執事セバスチャンだった。

「領主と爵位は、いつかは継ぐべきものだったので、異存はありません」

 小柄な少年は、視線を落とす。釣られて男も視線を落とした。視線の先にある領主の机には、息子宛の手紙と、領地を治める為の聖王からの任命状が置いてあった。

 これは、本来、明日の朝、見つける筈のものだった。

 人知れず、代変わりの事務処理を行い、文句を言わせないように、夜のうちに姿を消す。それが、ギルベルトの計画だった。それはうまくいく筈だった。息子たちも、城に仕える者も、誰も彼の計画に気付かなかったのだから。

 事前にそれを知ることが出来たのは、数日前、この少年が彼の元に訪れたからだ。


「ダーヴィット殿は、おられますか?」

 春の空を想像する淡い色の髪を持った少年とも少女とも取れる訪問者を出迎えたのは、執事長のセバスチャンだ。不審な来訪者の対応は、彼か彼の息子が行うのが、常だった。

「王の命で参りました」

 少年と言える年頃の男がそう訪ねてきて、そうですか、それは御苦労様ですと、信じるほどセバスチャンはおめでたくない。彼は白髪交じりの太い茶色の眉を寄せた。警戒心を強めた執事に、訪問者は書状を入れる筒を掲げて見せる。

 筒に、剣に絡み付く龍の紋章が彫られているのが、見えた。

「これはっ」

 偽物も多々あるが、それを見分けることができなくては、当主の片腕と名乗る価値もない。間違いない。カルーラの紋章だ。

「王の命で参りました」

 少年は、同じ言葉を繰り返す。今度は神妙な表情で、セバスチャンは一礼した。

「……お待ちしておりました。ダーヴィット様ですね」

 執事長は、近くにいた使用人へ、当家の若君を呼ぶよう命じ、自らは来訪者を応接室へと導いた。


「アドルです」

 応接室に現れたダーヴィットに、少年はそう名乗った。ダーヴィットだ、と若と言うには少々薹が立った、三十半ばの男は名乗る。

「王の命で参りました」

 三度目。この言葉しか知らないのではないかと疑いたくなる。が、最初に同じ言葉を二度言わせたのはセバスチャンだし、ダーヴィットに対しては初めてだ。

 ダーヴィットは、アドルの差し出した書状を受け取る。鑞封された筒を開け、中身を広げた。

 かこん。

 そんな擬声語が似合うくらい、見事にダーヴィットが口を開けた。その表情を言葉にするなら、あっけにとられた……いや、文字どおり、開いた口が塞がらない。

「い……いつの間に」

 強引に衝撃から立ち直ったダーヴィットは、父親譲りの青い瞳を執事長へと向けた。

「セバス、知っているな?」

「主に止められております」

 セバスチャンは、言外に肯定する。肯定と共に、これ以上彼が語れないということを理解した若君は、大きく息を吐いた。

「聖王からのご命令、確かに受け取りました。お役目、御苦労様です」

「いえ」

 アドルはにこやかに頷く。

「この話、ご存じではなかったようですね」

「はずかしながら」

「では、これはご存じですか?」」

 アドルは、可愛らしい顔で、にこりとほほ笑む。やはり、とセバスチャンは心の中で呟いた。主の書状に添付した自分の書も、聖王は読んで下さったのだ。

「貴方に全てを押し付けて、ご当主は旅に出るつもりですよ」

「え?」

「冒険者に、なるそうです」


「…………はい?」


 再びダーヴィットの口が、かくんと開いた。

 顎が外れるのではないかと、セバスチャンは少々心配になった。


 全てを知り悩んだ挙句、よりによって聖王へ相談してしまった執事長と、それを受けて聖王から派遣された冒険者の少年から、領主の息子は、父親の企みを聞いた。

 絶対あの方は諦めませんよ、と言うセバスチャンは正しい。さて、どうすればいいのかと思った時に、手をあげたのはアドルと名乗った少年だった。

「私達を雇ってください」

「?」

「下手に止めて、裏をかかれるよりは、素直に出して差し上げれば良い。最初くらいでしたら、サポートしますよ」

 当然、依頼料は頂きますが。とちゃっかり言うところが冒険者らしい。だが、不思議と嫌悪感は抱かなかった。

「……そうだな。適当に冒険を演出して、満足して帰ってきてもらうか」

「と、いいますと?」

 セバスチャンは真面目で優秀な執事だが、少々頭が固い。

「父のこの計画を……還暦のお祝いということにしよう」

「私達へ冒険の共ではなく、冒険の演出を依頼される、と?」

 反対に、年若くして冒険者をやっているアドルは、頭が回る様だ。ダーヴィットは、そうだ、と頷いた。


「父の夢を、安全に叶えてほしい」


 ダーヴィットは、初めて会った時に言った言葉を、繰り返した。

「任せて下さい」

 深い色の瞳には、自信が感じられる。実際、彼らが計画した冒険譚は、見事なものだった。物語を作るのが好きな仲間が居ると、彼は言っていたが、その人のシナリオだろうか。

「ただし、最初に言った通り、私達は一度だけしか、協力できません」

 他にも王の命を受けているらしい冒険者は、念を押す。十分だ、とヒサムル家の嫡男は答えた。

「それでも、十分満足していただけるだろう」

「……だと、良いですけど」

「まあ、そこは、そこだ」

 父をよく知るダーヴィットは、苦笑を浮かべた。




 年を取ると、朝早くに目覚めてしまうから、不思議だ。

 セバスチャンも、彼の主も、息子くらいの年齢の時は、二度寝が大好きだった。なのに、還暦をむかえた今、目は太陽と共に覚め、二度寝をすることができない。不思議なものだ。

 二人は、この老人の習慣を利用して、夜明け前に城を抜け出した。夜遅くまで起きている者が布団の中に潜り、朝早くに起きる者がまだ動き出さない時間帯だ。

 うっすらと白み始めた空を見ながら、セバスチャンは主を追う。朝市の準備も始まらない街道を歩くギルベルトは、どこへ向かうつもりだろう。

 一応、アドルに導けと言われている行き先はあるのだが、セバスチャンは、主をそれとなくそこへ導ける自信がなかった。彼は、彼の思う通りに生きる。流されながらも己を保つ従者と違い、自己の主張を通すことこそが己を表現する手段なのだ。だからこそ、人を導き、治める領主となり得る。

「ギル様」

 セバスチャンは、幼い頃からの呼び名で主を呼んだ。

「なんだ、セバス?」

「どこへ向かうつもりで?」

「冒険座」

 冒険座とは、魔物退治や雑事荒事を請け負う、ならず者一歩手前の何でも屋、冒険者の集まる場所だ。ギルドとも呼ばれるここに、冒険者として登録することで、どんな者も身分を保証される。あてのない旅をするには、必要なところだ。

「ばれますよ。ギル様は市井に顔を出し過ぎています」

「馬鹿か、おまえは」

 ギルベルトは足を止めて振り返った。言葉どおり、呆れた顔をしている。

「領内は、さっさと出るに決まっておろう」

「あ、そうですか。そうですよね」

 セバスチャンは納得して、何度もうなずいた。この道は、町外れの冒険座へ行くためではなくて、街から出るために通っていたのだ。

 ギルベルトは民に顔を売った。それは統治するのに必要だと思ったからで、決して間違った手段ではない。市井に頻繁に顔を出す領主は、民に慕われ、領主は民の笑顔を見ることで癒される。

 この領主と領民は、そういう関係を築いていた。

 しかし、顔を知られるということは、お忍びでの行動が全く出来ないと言うことだ。ギルドも例外ではないところが、この街の特徴だろう。町外れにある冒険座に顔を出したりしたら、その日のうちに、ギルベルトの所在がばれてしまう。登録を願い出れば、即座に城へ連絡が行くだろう。そっと城を抜け出し、息子に内緒で冒険者になろうと考えているギルベルトにとって、それは望むものではない。

「では、どこへ向かうおつもりで?」

「ボーク」

「へっ?」

「なんだ、不満か?」

「いえいえいえいえ! 何の問題もありません」

 むしろ好都合ですとは言わない。驚いたのだ。導け、とアドルに言われた場所に、ギルベルトが自発的に向かうと言ったことに。

「エクウス以外に、冒険座がある場所と言えば、ボークだろう」

 ……あ。

「そうでした」

 セバスチャンは頭を下げる。

 この辺りは、山にへばり付くようにして田畑を耕す農村が多い。そんな中、数少ない商業都市は、領主の城があるエクウスと、やはり隣の領主が住む、ボークくらいしかなかった。導くも何も、行く先の選択肢自身がひどく限定されていた。

 変に気負っていたらしい。

「行くぞ。昼頃には着くはずだ」

 二つの街は、川と、その隣を走る整備された道で繋がっている。上流がエクウス。下流にボーク。馬車も走れる広さの道は、当代の両領主が共同出資で魔法使いに張らせた、魔物避けの呪があるため、魔物も出てこない安全な道だ。

「この日のために、ボーク領主をけしかけて、結界を張ったんだ」

「……冗談でしょう?」

 二つの街を結ぶ道を整備したという偉業を残した領主の言葉に、セバスチャンは思わず聞き返す。

「儂が、冗談を言うとでも」

「言いますね。冗談のような本気もあるから、たちが悪い」

「……おまえの反応は、おもしろくないな」

 冗談だったらしい。

 セバスチャンは、ちょっとほっとした。


 予想どおり、呪――この場合、祝と呼ぶのだろうか――によって守られている二つの町を結ぶ道は、安全に通ることができた。

 エクウスを出た時に誰もいなかった道は、日が昇ると途端に人で溢れた。道沿いでは朝市が開かれる。朝市目的でやってくる人と、別の目的で先へ進む人で、道が混雑する。

 賑やかになった街道を、満面の笑みで、晴れて旧領主となった男は抜ける。秋と言うにはまだ高すぎる太陽が、空気と大地を熱する頃、二人はボークへと辿り着いた。


 街と呼ばれる場所は、壁で囲まれている。理由は二つ。魔物の侵入を防ぐためと、人の出入りを把握するためだ。ただし、後者はほぼ形骸化している。街の出入りにそれと言った手続きは必要ない。開けられた門には、数人の兵士が常駐していが、彼らは出入りの人数を数えているだけである。彼らの主な仕事は、有事の際に素早く門を閉める。この一点にある。

 ギルベルトは堂々と門を入り、すぐにある店へと入って行った。ギルドの位置は、大体決まっている。門の一番近くにある、入り口が閑散とした店だ。

 扉を押し開けると、カランカランと音がした。店内は、意外に明るい。天井の高い食堂が、最初に目に入った。昼時だからか、テーブルはそこそこ埋まっていた。大量の料理をかき込んでいる者、薄汚れた格好で昼間から酒をあおっている者、冷めたお茶を脇に頭を寄せてこそこそと話をしている者など、様々だ。

 奥まったところに、カウンターがある。その右手にある階段が、恐らく宿泊施設に繋がるのだろう。

「いらっしゃい」

 カウンターの向こう側に座っていた女性が、顔を上げて二人を迎える。赤毛の大柄な女性だ。まだ若い。

「……え?」

 ギルベルトが、カウンターにいる女性をぽかんと見つめた。

「シリィちゃん?」

「彼女をご存じなのですか?」

 セバスチャンは、驚きながら主を見上げた。隣町の冒険者を知っている事にも驚いたが、それ以上に、少女と言うには少々薹の立った女性を「ちゃん」付けで呼んだ事に驚いたのだ。

「セバス、知らんのか!?」

 しかし、ギルベルトはセバスチャンの問いに、彼以上に驚いたらしい。思わず上げた大声に、食堂にいた冒険者達が、一斉に顔を上げる。そして、彼らの姿を見て、あぁ、と妙に納得した面持ちで、自らの作業に戻った。

「まぁ、そんなところに立っていないで、入ったらどうだい?」

「は、はいっ」

 いつの間にかカウンターから出てきた、シリィと呼ばれた少女が、ぽんと軽くギルベルトの肩を叩く。それだけで彼は直立不動になった。セバスチャンは、驚きを通り越して呆れ返る。なんだこれは。まだ年が一桁だったころの、初恋の時と同じ反応だ。

 節々が凍りついてしまったのではないのかと言うような、ぎこちない動作で、ギルベルトは、シリィに付いて行く。促されて、ぎくしゃくとした動きでカウンターの椅子に、どうにか座った。セバスチャンは、主の斜め後ろに控えて、はらはらとする。背の高いカウンターに合わせた、高めの椅子から、主が無様に落ちてしまうのではないかと思ったのだ。

「んで、爺さんたち、何のようだい?」

 カウンターの向こう側に回ったシリィは、笑みを浮かべて首を傾げる。可愛らしさや艶っぽさよりも、清々しさを感じる笑みだ。

「シリィちゃんは、なぜ、こんな田舎町に?」

 ギルベルトは、目の前の女性の問いを聞いていない。

 だが、シリィは不快な顔をせずに、当然のように答えた。

「たまたま用事があってね。カルーラ自体には数年前からいるよ」

「なぬ! そうだったのか?」

「内緒でね」

 だから、とシリィは人差し指を口に当てる。色っぽい仕草な筈なのに、健康的な好感しか抱かせないのは、彼女の才能だろうか。

「アタシがここに居ることは、黙って居て暮れるとうれしいな」

「うむ。うむ。儂は口が堅いことで有名だ。そこのセバスもなっ!」

「ふぅん?」

 シリィが青みの強い緑の瞳をセバスチャンに向けた。セバスチャンは、その通りだと何度も頷く。その仕草に、彼女はくすりと意味ありげに笑った。

「仲間と、冒険者をやっている。たまに、こうやってカウンターにも立つけどね。今は、ちょっとした依頼の待ち時間だから、店番をやってたんだ」

「仲間がおるのか?」

「うん。青い悪戯っ子がね」

 シリィの言葉を聞いて、セバスチャンははっと顔を上げた。真っ先に思い浮かんだのは、年若い使者。まさか、彼女も?

「年下なのか?」

「そうだね。アタシが最年長」

 なら、仕方がないか。ギルベルトはなぜか一人で納得した。

「もしフリーなら、シリィちゃんを誘えると思ったのにな」

「誘うって……冒険者なのかい?」

 緑の瞳を見開いて、シリィがカウンターから乗り出した。よくよく見れば、彼女の仕草は芝居っぽい。わざとらしい反応に、ばれるのではないかと少しはらはらした。

「冒険者志望だ」

「……ふぅん」

 シリィは、感心したようにギルベルトを見る。その視線が、傍らに控えていたセバスチャンへと向けられた。彼は頷いて見せるが、黙殺された――勘違いか?

 一方ギルベルトは、シリィの反応に何か思うことがあると感じたらしく、太い眉を歪めた。

「こんな老人が冒険者志望なんて、おかしいか?」

「いいや」

 シリィはあっさり否定してから、カウンターの下を覗いた。二人の視界から、彼女の姿が消える。

「それなりに心得もありそうだしね」

 死角から、声と共に紙が飛んだ。ひらひらとカウンターに舞い降りた紙をギルベルトが手に取る。覗いて見れば、酒の領収書だった。さらに降って来た紙は、納品書。地図、白紙の依頼書、白紙の請求書……カウンターの下で、何か書類を探し始めたようだ。

「シリィっ!」

 この、散らかされた書類をどうすべきかと悩み始めたころ、奥の事務室から、男が飛び出した。

「こんな散らかしてっ! 何を探しているんだ?」

「冒険者登録書と、その他一式」

「……持ってくるから、これ以上触るな」

 探しているところにはないから、と、男は頭を抱えた。

「教えた気がするんだが……僕の気のせい?」

「そうだったかね?」

 シリィは悪びれずに、すくっと立ち上がった。男と視線が並ぶ。彼女は女性にしては大柄だった。

「片付けは?」

「僕がやる。シリィの『片付け』は『纏めて脇に寄せる』の同義語だろう」

「失礼だね」

 シリィは、そんなに憤慨した様子でもない声で、抗議する。

「捨てるという選択肢だってあるよ」

 ……それは。

「頼むから、そのままにしておいてくれ。僕がすぐに片付ける」

 どうやら彼女は、事務をやるには少々大ざっぱな性格らしい。


 間もなくして、男が書類をもって現れた。カウンターに散らばった書類を、ぐしゃりと纏めてカウンターの向こう側へ落とすのを、眉を顰めたまま無言で見守る。何を言ってもむだだと分かっている顔だ。

 そこだけ片付いたカウンターに、事務の男は二組の書類を置いた。

「書きたくないところは空欄で良い」

 一枚目を指して、男は言う。その用紙を見て、ギルベルトは失笑した。

「いい加減なんだな」

 そこにあるのは、名前、出身地、生年月日、性別、住所など、基本的なものばかりだった。書けない者の方が少ないだろう。

「この欄を埋めることが出来ない者も受け入れるのが、冒険座の良い所だ」

 そうだった。

 ここは『普通』ではない素性の者も受け入れ、独自のルールで厳しく律する組合なのだ。ギルドは魔物を倒す者達の集まりだけではなく、社会という輪から外れないための、最後の砦と言う役目もあるのだ。

「では、儂も書けるところだけ……おい、セバスもだぞ」

「あ、はいっ」

 忘れていた。

 慌てて机にある書類にかぶりついたセバスチャンへ、シリィが椅子を勧める。背の高い椅子は、小柄なセバスチャンにとって、座るのに苦労する。よじ登るようにして座れば、当然足がぶらりと宙で遊んだ。地に足がつかないのは不安だ。セバスチャンは、落ちないようにと、椅子に深く座り直してから、カウンターにある紙に向かった。

「1枚目は、適当で良いよ。ただし、2枚目以降は、しっかり書いておくれ。面倒だろうけどね」

 主に倣い、氏名は名前だけを、出身地はカルーラのエクウスとだけ書いた所で、シリィが、残りの書類を示した。

「これは……確かに面倒臭いな」

 ギルベルトが、苦笑する。

 そこには、いくつもの項目が一覧表となって、並んでいた。それは主に技能を問うものだ。戦いに使う武器をひとつ取っても、これでもかと言うくらい並んでいる。魔法も、現在判明している系列が、すべて網羅されているのではないかという勢いだ。

 ギルベルトは迷わず得手に長剣を選ぶ。たしなみ程度に呪文も使えた。逆にセバスチャンは、何を選べば良いのかと迷う。家事や事務は得意だが、荒事は苦手なのである。呪文も才能に恵まれなかった。

 全て『出来ない』でも、冒険者になれるのだろうか。不安に思いながら、一覧を眺める。自分も冒険者にならなくては、主へ付いて行けないではないか。それは困る

 と、深いため息をつきかけた時。

「……なんだこりゃ」

 見つけた。

 掃除・洗濯・料理・裁縫・草木の剪定・事務・会計・執事業務……項目に一貫性がないと思うのは、セバスチャンがこれらのプロだからだろうか。前の方にあった項目も、見る人が見れば、こんな感じなのかもしれない。あまり気にしないようにして、セバスチャンは『執事』として身につけたこれらの技術――と言える代物なのだろうか?――にチェックをつける。ところで『執事業務』とは、どこまでのことを指すのだ?

「執事の真似事が出来れば、いいんだよ」

 耳を、低い女性の声がくすぐった。驚いて見上げれば、にやりと笑ったシリィと目が合う。

「あーっ!」

 ギルベルトが、手を止めて叫んだ。

「狡いぞ、セバスっ!」

「……いや、そう言われましても」

 勝手に話しかけてきたのはシリィの方だし。困って見上げれば、当のシリィは平然として、再び彼の耳に口を近づけた。

「あーっ! あーっ!!」

「そろそろ、始まる……来るよ」

 ギルベルトが絶叫する中、シリィの小声がしっかりセバスチャンの耳に届く。

「来る?」

 意味を掴み損ねて首をかしげた時、バンッ! と扉が勢いよく開いた。

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