小さな大平原 9
戦いが始まったとき正面から照らしていた太陽は、ピディス河の向こうを通り過ぎ、今はエド達の真横から戦場を照らし出している。
北のルクシス山脈から吹き降ろす風は、もくもくと立ち上る煙を、ピディスの方へと押し出している。煙が晴れた場所に見えるのは、黒く焦げた枯草と、そこに横たわる人馬の影。
火はもう収まっていた。川の流れは相変わらず激しいが、もうその中に人はいない。ぽつりぽつりと金の鎧と馬が対岸に見える。無事、自国へ逃れることが出来たフラビスの騎士は、あれだけの様だ。
エドは、再びぐるりと戦場を見渡す。
灰色の箱のような街、セルペンは門が開き、人が行き来している。包囲していた騎馬隊は逃げたようで、軍馬の姿はない。見えるのは、青い軍服でもないから、恐らく冒険者と街の者達だろう。あの城の戦いの要は、領主の放蕩息子だとフィーネが言っていた。
青い色が多いのは、彼らのすぐ下に見える位置だ。整然と戦後処理に入った正規兵たちである。取り残されたフラビス軍も、そこに集められている。この後彼らは、どうなるのだろう。
「なぁ、フィーネ……」
それを訪ねようと口を開いたとき、エドは違和感を覚えて視線を再び遠くへと向けた。
「なんだ?」
「どうしました?」
名前を呼ばれたフィーネが彼の隣に立ち、彼が見ている方へ視線を向ける。そして、怪訝そうに顔をしかめた。
「あそこには、誰がいる?」
エドが指したのは捕まったフラビス軍が集められている場所よりももう少し先の川沿いだ。そこに、不自然な砂煙が上がっている。
この砂煙の上がり方を、エドは知っていた。
ついさっき知った、と言うべきだろうか。大量の馬が駆けるときに起こる、砂煙だ。
「まさか、援軍!?」
フィーネが身を乗り出して叫ぶ。
「いつの間に? ありえないっ!」
しかし、それは確かに騎馬隊の様だった。先ほど戦ったフラビス軍の十分の一くらいの量だが、凄いスピードでカルーラ軍へと向かっている。
矢のような形で疾走する騎馬隊は、あっという間に川沿いに居たカルーラ兵へと突っ込み、そのまま突き抜けて行った。勝利が決まってからも整然としていた青い群れが、初めて崩れる。崩れてしまう程の鋭い一撃だった。
「姐さんっ!」
フィーネの叫ぶ。
「あいよ」
彼女の意を汲んでシリィが地面に広げたのは、例の将軍たちと連絡を取るための魔法具だ。一対一でしか話せない道具だが、魔法の造詣が深いである彼女が操れば、複数人へ同時に言葉を伝える事が出来る。
「モーラ!」
「セザール!」
「ソフィア!」
「ジェスティ!」
彼女は名前を叫ぶ。エドの知らない名前ばかりだが、おそらく前線に出ている指揮官たちの名前だ。しかし、どこからも応答がない。
「……くそっ」
フィーネは姫君とは思えない悪態を吐いて、顔を上げた。
「エド、モーラの位置分かるか!?」
「……えっ」
いきなり声をかけられて驚きつつ、エドは目を凝らす。あの波打つ濃紺の髪をここから見付けろと言うのは、目が良いと自負するエドにとっても至難の業だ。
「流石にわからんぞ」
「肉眼でわかるか。ふざけているのか!」
叱られた。いたって真面目だったのだが、確かにこの距離で人ひとり肉眼で探すのは、無理だ。動揺していたらしい。
「姐さんとエドは、遠見の魔法でモーラを探して。俯瞰した状況を私に伝えて」
「了解」
「お、おう」
妙に馴染む口調による指示に、エドは戸惑いを覚えながら頷く。
「フェイス」
「は、はい」
「プリマに私を乗せて、下へ」
「え、あの場所にですか?」
「この状況で、私がここにいる理由は無い。急げ!」
「は、はい!」
フェイスは答え、奥の木につないであったプリマ・ヴェントの元へ、フィーネと並んで駆ける。
なぜ、あの馬をここに連れてきたのか疑問に思っていたが、こういう時を想定していたのだろう。用意周到である。
プリマ・ヴェントは、フェイスの頼みに応じてフィーネが背に乗ることを許した。フェイスの後ろにフィーネを乗せ、プリマ・ヴェントは文字通り風のように、山を駆け下りた。
「……なあ、姐さん」
彼女たちの去った方向を眺めながらエドは、桶に張った水に何かを語りかけているシリィに、声をかける。
「………………なんだい?」
しばらく間をおいて、シリィの返事が返ってきた。
見れば、桶の水が鏡にようになっており、そこに俯瞰した平野が映っている。これが、フィーネの言っていた『遠見の魔法』である――いや、フィーネじゃない。
「なぁ、あれってアドルだよな?」
「アタシにわかるわけないじゃないか」
おどけた調子で言われた答えは、これ以上の追及を拒否するものだ。
「全部終わったら語るつもりなんだから、待てばいいんだよ」
「本当に語るのか?」
「あれだけさらけ出して、それでも隠すのは悪あがきでしかない。そんな無様なことを好むと思うかい?」
シリィは再び視線を水鏡へと戻す。彼女の低く心地よい旋律に合わせて、鏡に映った風景は動いたり、拡大したりしている。
エドは追及を諦め、溜息をつく。その耳に、小さな笑い声が聞こえた。
「動揺して、すっかり演じるのを忘れていたね、あれは」
「姐さんは、どこまで知っているんだ?」
「アタシだって、何も知らないよ」
嘘言え。なら、なんでこんなにも飄々としていられる。
「アタシが知っていたのは『アドル』と言う王族が冒険者になるという事。聖王には、その王族を見守って――監視してほしいと頼まれただけさ」
実際、アドルが何者かなんて気にしたことは無かったと、彼女は珍しく苦笑を浮かべていた。
「飄々としているんじゃない。アンタ達ほど、気にしていないだけだよ」
山を降りながら、彼女は絶えず通話の魔法具で誰かと話していた。会話の相手はセルペン、ラーマ、チェルトラなど、この平野にある各都市だ。謎の軍団――彼女は『援軍』ではなく、そう言った――が現われた事、門を閉じ、堅く守るよう指示を出している。
山を下ったところで、彼女の口も止まった。一通りの指示が終わったのだ。
「あそこへ行けばいいんですね」
フェイスが指したのは、再び戦場となった平野だ。
「山沿いに、あの軍の背後に向かって」
「あの騎馬が向こうへ駆けた時を狙って合流するのですね」
「そう」
もう一撃は耐えてくれ、と祈るような声が聞こえる。
「…………」
フェイスは、しばらく無言でプリマ・ヴェントを走らせた。
背後の姫君も無言だ。何かをずっと考えているようだ。夜のラクスラーマ湖と同じ色の瞳に、静かな光を湛えているが、それがどこを見ているのか、分からない。
「ひとつ、聞いていいですか?」
思考の邪魔になることを承知で、フェイスは思い切って声をかけた。
「何?」
「あなたアドルちゃんですね」
「違うよ」
フィーネは、明確に答える。しかし、その答えが質問者にとって満足のいく答えとは限らない。
「最初からずっと、私はフィーネだ。姫様の振りをしているか、していないかの違いなだけで」
「こちらが『素』という事ですか」
「そういう事」
背後で肩を竦めたのが分かった。
「動揺して、素が出た。出てしまったら、隠す必要もないだろう」
憮然とした口調に、フェイスは思わず笑う。
意外な感じもするが、馴染んでいるのはアドルとほとんど口調が同じせいだ。これでは、どちらがアドルでどちらがフィーネかわからない。
「一度もアドルちゃんが姫様をやったことは無いのですか?」
「『フィーネ』がいる限り、『アドル』を『フィーネ』にすることは、しない。絶対に」
強い口調だ。この口調に対して、疑問をはさむことは、フェイスにはできない。
「その話、今は止めていいかな? それどころじゃない」
「あ、すみません」
確かにそうだ。
フィーネが『素』をさらけだすほど逼迫した事態だという事を、フェイスはすっかり忘れていた。フラビスの平原に続く、この小さな平野を駆けるのが、あまりにも気持ちよくて。
視線の先では、砂煙をあげて整然と謎の騎馬隊が突撃を開始した。
その姿を見てフェイスは鳥肌を立てる。あの突撃は、全てを薙ぎ倒す。少数ながらも、ここに侵攻してきたフラビス軍の比ではない、破壊力を持っている。なぜか、そう感じた。
「フェイス!」
背後から、鋭い声がフェイスを呼んだ。
「行く。モーラ、見つけた」
「はいっ!」
フェイスは手綱を握りなおした。
そこは、惨憺たるありさまだった。
謎の援軍が通った後が、くっきりと残っている。それは、槍に貫かれ、蹄の下敷きにされた者達によって、赤黒い道となっていた。
「まさか、味方もっ……」
フェイスは、横たわる人々の来ている服が、青系統のものだけではない事に気付いた。金を基調としたマントを着ている者も少なくない――フラビスの騎士だ。
「あの一群は、フラビスの援軍ではなかったのですか」
「フラビス軍かどうかは分からないけれども、ここにいるフラビス軍の味方ではないようね」
後ろに居るフィーネが、『王女様』の口調で答える。
その王女様は、目敏く現地の総司令を見つけていた。
「モーラ!」
「……姫!?」
混乱の中にいたモーラは、フィーネの登場に目を丸くする。
「なんで、こんなところに」
「こういう状態だから、こんなところにいるのです」
口速に言いながら、フィーネはプリマ・ヴェントから降りる。フェイスも彼女に続いて馬から降りた。
「何者かわかる?」
いきなり現れた、第三の軍団の事だ。
「わかるわけない。全身鎧で覆って、顔すら見えない」
「全身鎧……顔が全く見えないわけね」
呟いてから、彼女はモーラを見上げる。
「フラビスの総大将は?」
「行方知れずだ」
「困ったわね……」
彼女は目を伏せて何かを考え始めた。
「何を企んでいる?」
モーラがそう言いたくなるのも無理はない。フェイスも彼女が何を考えているのか、まるでわからない。彼女の勢いにおされてここまで連れてきたが、落ち着いてみれば、この修羅場で彼女に何かできるとも思えない。
二人の視線を受けてたからか否か、彼女は視線を上げた。その瞳に、迷いや戸惑いが無い。こちらが戸惑うくらいに、確信的だ。
「モーラ、カルーラ軍は、フラビスに対応したのと同じ対応を」
「囲むのか?」
「機動力が落ちたら、敵一人につき、複数人で当たって」
現れた謎の軍団は少数だから、その戦法が使える。
「機動力を落とすのは? 歩兵の囲みは蹴散らされるぞ」
「それは、私はどうにかします」
「姫が?」
彼女は、この修羅場に不釣り合いな、可憐な笑みを浮かべた。
「敵の敵は味方」
「は?」
ぽかんとするモーラに、お願いねと一言言って、フィーネはフェイスにプリマ・ヴェントを出すよう頼んだ。
『フラビス軍に馬を!』
有無を言わせぬ声が、フラビスの捕虜を集めた場所に響き渡る。カルーラの兵たちは、その声に疑問も抱かずフラビス軍に生き残っていた彼らの騎馬を与えた。
『フラビス騎馬隊よ、あの軍団を駆逐する!』
その声は、女声のものにしては低く、男性のものにしては高い。強い意志と、抗い難い力を持った声に、フラビス軍も思わず従ってしまった。
解放され、騎馬を与えられ、隊列を整えたその一番前に、フラビスの馬にしては貧相な馬が居るのを、彼らは見付けた。そこには、少女と言える年齢の女性が二人乗っている。
前に乗る、金色よりも褪めた色の髪を持つ少女は、正面――フラビス軍も、カルーラ軍も蹴散らした謎の軍団――を見据えて、槍を構えている。その構えは、少女ながらに様になっていた。
『謎の騎馬隊を蹴散らして、生き残れ!』
彼らを無条件で従わせる声を上げたのは、後ろに乗っている少女だ。空色の短い髪が、風に揺れている。
『突撃!』
謎の騎馬隊がこちらに向かうのと同時に、空色の髪の少女が号令をかける。
自分達の団長以外の号令だと言うのに、フラビス軍の第四騎士団は、迷わず彼女の声に従った。
敵は寡兵だったが強かった。
カルーラ軍により半分以下に減らされた騎馬隊よりも、更に少ない。しかし、強さは互角だと認めざるを得なかった。
ただ、フラビス軍には予想外の味方がいた。
彼らの突撃を援護するように、カルーラ軍が動いたのだ。
フラビスの騎馬隊が薙ぎ払い落とした騎馬や、騎馬の群れからわずかに外れた騎馬に、まるでハイエナの様にカルーラの歩兵が群がる。カルーラ軍は、一人一人がそれなりに強い剣士だ。それが、三人一組になって、落馬した敵に襲い掛かる。騎馬隊同士の突撃だけでは得られない損害を、カルーラ軍は与えていた。
「――この音」
突撃のさ中、フィーネは眉を寄せて呟いた。
フェイスは彼女の違和感を理解する。違和感は、恐らく直接戦ったフェイスの方が、鮮明に感じているだろう。
槍が敵の鎧に当たったときの音が、おかしかった。妙に空虚な響き。
「空洞です」
「魔物」
「みたいですね」
「なら、遠慮する必要はない――目的が分からないのが、不気味だけど」
「目的なんてあるんでしょうか」
フェイスは馬を返しながら、首を傾げる。そこに、屈強な騎馬隊の割には貧相な騎士が、馬を駆ってやってきた。
「君達は、何者――っ!?」
兜を上げた騎士は、若い。おそらく20そこそこだろう。屈強な騎馬隊には似合わない穏やかな容貌をしている。
騎士は、二人の顔を――いや、フェイスを見て、息をのんだ。フェイスは背後のフィーネに気付かれないように、そっと目配せする。若い騎士は、それで事情を察してくれた。
「貴方は?」
やり取りに気付かないでいてくれたらしいフィーネが、やってきた騎士に尋ねた。
「オレはチェルソ。フラビス軍総大将の従者――副官だ」
いつもの呑気な雰囲気が消えているのは、流石に非常時だからだろう。
「総大将は?」
「死んだ」
チェルソは無感動に、簡潔に答える。
チェルソが所属する軍の軍団長の性格を考えると、負けを悟った瞬間、死へと自ら走って行ったのだろう。生き恥晒す事を良しとするタイプではない。
「今指揮権を持っているのは、貴方ですね」
「そういう事になる」
そう言うチェルソは、どこか不本意そうにも見えた。恐らく将軍が死んだことが不本意な訳ではないだろう。自分が軍の指揮権を持ってしまった事が、不本意なのだ。
「私は、アドルフィーネ。カルーラの総大将です」
チェルソは再び息をのむ。フェイスが背後に乗せている少女の正体を知って。
「共に、あの騎士団を殲滅して頂けませんか」
フィーネは続ける。
「協力して頂けるのなら、生き残った騎士達が、ピディス河を越えるまでの安全を保障します」
「捕虜を無条件で返すという事ですか」
あまりに良い条件に、チェルソは驚きの声を上げた。
「手段を選んでいられません。それに――」
フィーネはふわりと微笑む。
「この共闘が、両国の和平に繋がれば良いと、虫の良いことも考えております」
「……個人的には、オレもそれを願う。けど」
チェルソは表情を曇らせる。
彼は、それが無理だと知っている。フラビス国王が、それを望んでいないからだ。
国王が望んでいるのは、カルーラとの戦争。なぜ望んでいるかは、誰も知らない。だが、国王に忠誠を誓った騎士は、それに忠実に従わなければいけない。
「それは後の話。今は、生き残るための手段として、お願いできますか」
「喜んで」
チェルソはフィーネの笑顔に釣られるように笑顔で頷き、自軍をを集めはじめた。
行動を明確にしたフラビス軍は強かった。
フィーネの強引な指揮による突撃で、相手が魔物だと気付いたのも、一因だろう。フェイスが気付いたことに、訓練された騎士達が気付かないわけがない。
カルーラ軍の士気も上がった。彼らも、同じ騎馬を相手にするなら、人間より魔物の方がやりやすいのだ。
人対人の争いは、人対魔物となっていた。
両軍の方針を明確にした後、フェイスとフィーネは後方に下がっていた。あとは、戦場のプロに任せればいいとは、フィーネの言葉だ。
そのフィーネは、馬上で歌を歌っている。
それをフェイスは場違いだと思わない。
真っ直ぐ、遠く広く草原に響く声は性を感じさせない。感情はあるが、変な癖が無い。ただ響きの美しさだけが、広がっていく。
この声を、フェイスは知っていた。
これは、人を救う声だ。
これは、魔物を救う声だ。
人に力を与え、魔物の力を奪う――違う。魔物にその前の姿を思い出させ『魔』の力を削ぐ。上手くいけば、元に戻る。
この騎馬隊の場合は、何だろう。戦死した騎士だろうか。古くなって打ち捨てられた鎧だろうか。
両軍の士気の高さに加え、この声が、戦場で人間たちを有利にしているのを、フェイスは知っている。
間もなく想定外の戦いにも決着がつくだろう。
「フェイス、行こう」
歌が、止んだ。
「行く?」
「あの騎馬隊の、総大将の顔を拝んでやる」
「わかりました」
フェイスもそれは興味がある。頷いて、馬を駆った。
馬を駆りながら、考える。
あの歌――あの響き。彼女が良く知る、その歌声。
そこから導き出される、一つの確信。
でも、それなら……
戦場には人馬の他に、バラバラとなった漆黒の鎧が点々と転がっている。馬上にいる漆黒の鎧は、既に一体のみとなっていた。
その一体を、フラビスの騎馬隊が囲んでいる。
「あれが、大将?」
残った魔物の正面で槍を突き付けているチェルソの横に、プリマ・ヴェントは割って入る。チェルソはフィーネの問いに、そのようです、と答えた。
「やはり、人形では敵わんか」
その総大将らしい黒い鎧が、声を発した。硬い響きを持つ、落ち着いたバリトンだ。
その声を聴いて、フェイスは体を硬くする。
「まさか、直前まで敵対していた軍が、いきなり共闘するとはな」
苦笑と称賛が混じった声。その手が、自身の兜に、触れた。
ごくりと息をのんだ音が聞こえた。自分の音かと思ったが違う。聞こえたのは、背後のフィーネからだ。
フェイスの口は、飲み込むものが無いくらい、乾ききっている。
極度の緊張で。
「君が総指揮か。父親に似て、柔軟な思考を持っているようだ」
そう言って、鎧は兜を取る。
中は、他の魔物との様な空洞ではなかった。
そこにあるのは、人間の顔だ。
砂色の短い髪に、琥珀色の鋭い瞳を持った、屈強な戦士が、そこにいた。
「あ、貴方は……」
乾いた声、これもフェイスのものではない。フィーネだ。
「また、会おう」
彼は、厳格そうな顔に柔らかな笑みを浮かべ、そして、消えた。
沈黙が、フラビス軍の間に広がる。
誰もがフェイスと同じ衝撃を受けて、動けないでいた。
その様子を不審に思ったカルーラ軍が、遠巻きに自分達を見ているのを感じる。最後の敵が移動魔法によって戦場から去ったのは、遠目でもわかったのだろう。なのに、包囲を解かない――立ち尽くしているフラビス軍を訝しがっているのだ。
「な、なんでだ?」
どのくらい経ってからだろう。誰かが震える声を発した。
「あの、あの方は……」
戸惑いの声。その声が、フラビスの騎馬隊全体に広がるその前に、明朗としたフィーネの声が響く。
「フラビスの皆様、ご協力ありがとうございます。謎の軍団は、全て駆逐できました!」
「アドルフィーネ殿」
隣のチェルソが顔を上げる。臨時の指揮官に、フィーネは小声で言った。
「動揺は理解します。私も驚いています。しかし、それを我が軍に知られないようにしてください」
「何故」
「大将の正体を我が軍が知れば、あの軍団がフラビスのものと誤解します」
「あなたは、違うと信じてくれるのですか」
フィーネはきょとんとした表情を浮かべた。
「だって……貴方たちの動揺を見れば、一目瞭然でしょう?」
彼女は、わかりきったことを聞くチェルソに驚いたのだ。その様子に、自分達に対する信頼を見出したのだろう。チェルソは、頭を下げる。
「渡河の準備をさせます。早々に、国へ引き返してください」
「オレは残らなくても?」
戦後の交渉など戦後処理の為に総大将が残ることは珍しくない。
「和平は無理なのでしょう? どさくさに紛れた事にした方が、面倒くさくなくていいです」
「…………確かにそうですね」
あまりに率直な意見に一瞬絶句したチェルソは、のんびりとした口調で応えた。面倒くさいことをやりたくない、と言うのは、恐らく彼も同じだろう。
「では、しっぽを巻いて逃げさせてもらいます」
チェルソの言葉に笑顔で頷いて、フィーネは馬から降りる。
「私は、自軍に戻ります」
優雅に一礼して、彼女はモーラの待つ場所へ駆け出した。
「君は、どうするの?」
ずっと消えた騎士の跡を見詰めていたフェイスは、彼に問われて、ようやく我に返った。
「え……あれ? ああっ!」
フィーネに置いて行かれてしまった。
慌てるフェイスの様子に、彼女よりも早く衝撃から抜け出したフラビス軍が、暖かな笑みを浮かべた。
「君は今、何をしているんだい?」
チェルソの口調は、この場に似つかわしくないのんびりとしたものだ。だが、それこそが、彼らしい。
「冒険者です――今は冒険者の仕事で、フィーネ王女の護衛を」
「じゃ、行かなきゃね」
「そうですね」
フェイスは、二回大きく深呼吸をした。賢いプリマ・ヴェントは、自分が落ち着くのを、じっと待っていてくれている。
「では、失礼します」
「フェイス!」
一礼し、馬を返したフェイスの名を、チェルソが呼んだ。
「分かったら――連絡する」
「お願いします」
低い声でフェイスは返して、馬を駆った。
「終わったようだね」
シリィが息を吐いて、地べたに座り込んだ。水盆が揺れ、ずっと映されていた映像が消える。
「フラビス軍が、渡河してるな」
河の流れが穏やかになっている。カルーラの人間でないエドに、この流れがどの状態なのかわからない。だが、フラビス軍が馬で渡れる程度に穏やかな流れになっているのは、分かる。
フラビス軍が去り、カルーラがこの小さな大平原を取り戻した。
荒らされた田畑はすぐに戻ることは無い。だが、これ以上荒らされることが無ければ、人々はゆっくりと日常を取り戻すことが出来るだろう。
そう考えると、何も聞こえない筈の平原から、歓喜の声が聞こえる気がした。
「良かったな」
エドは、笑顔で呟いた。その耳に、本当に遠くから何かがきこえる。
「?」
エドは眉を顰めて、風に乗って聴こえてくる音に、耳をすます。
「歌?」
それは歌だった。耳をすませば、その音は鮮明に聴こえてくる。
「歌だね。遠い……良く届くもんだ」
シリィもそう言って、目を瞑り耳をすませた。
聞こえてくる歌は、勝利に沸き立つ歌ではない。日常を取り戻した歓喜の歌ではない。当然、勇ましい戦の歌でもない。
男声にしては高く、女声にしては低いその声が奏でる歌は、死者の魂を鎮める歌。この戦で犠牲となった、人々の為の鎮魂歌。敵も、味方も関係ない。おそらく、最後に現れた魔物の魂すらも鎮める歌。
「フィーネ……?」
いや、違う。
「アドルだ」
この声を、エドは絶対間違えない。
アドルが、夕日で更に赤くなったシャフロンの平野で、全ての魂の為に歌っている。
「あいつはどこに居たんだ?」
問いながら、自分の中ですでに答えが出ている事に、気付いた。
なら、彼女は? いや――彼は、一体?