小さな大平原 8
千二百の騎士の雄叫びは、平野の北に位置するセルペンの街にまで届いた。
城攻めの役割を得た六百の部隊を指揮するエミディオはその声を聴いて、臍を噛む。
第四軍の軍団長ヴァルシリオに心酔する金髪の男は、こんな陰気な城攻めを望んでいたわけではなかった。本当は、ヴァルシリオの横で、馬を駆り、たくさんの兵を叩き潰したかった。
この一年、固く門を閉ざして引きこもっている敵に、エミディオは苛立っていた。側近である弟の進言を聞いて、スパイを場内に入れてみたりもしたが、しばらく音沙汰がない。そのスパイを買って出た当の弟は、スパイが活躍することによって、門は勝手に内側から開くと言っていたが、今のところその気配はない。
平野の南東では、決着をつけるべく正面からの衝突が始まったというのに……
しかし、どんなに破壊力のある騎馬隊と言っても、石の壁に突撃して、壊せるはずがないことくらいは分かっている。そもそも、馬を石の塊にぶつけさせるなどと言う選択肢が、ない。馬は相棒だ。そんな酷い真似ができる者は、フラビスの騎士にはいない。
「将軍っ!」
騎士が一人、慌てふためいた様子で駆けてきた。
「門の上に、人がっ!」
「何っ!?」
エミディオは、騎乗して報告に来た騎士の後を追う。
この一年、門に人が現れたことなど無かった。壁の中の部屋から、矢を射かけられたり、熱した油を垂れ流されたりしたことは散々あったが。
「フラビス王国第四軍第三部隊長エミディオ・アルジェン!」
駆けつけてみれば、門の上には確かに数人立っていた。一人が左右に人を従えている形だ。その中央に立つ一人が彼の名前を正確に呼んだ。
その男を見て、エミディオはにやりと笑う。
あれは、弟と共に自分が送り込んだ間諜だ。黒の民から紹介された、鼠色の髪の冒険者。奴が堂々とそこにいるという事は、内側から門を開ける準備が整ったという事だろう。
「受け取れっ!」
彼の隣にいた男が、大きな塊を投げた。
あの形、あの大きさ、おそらく領主の首だ。これで、この城は落ちた。事後処理を部下に任せ今すぐ取って返せば、あの平野での決戦に間に合うだろうか……
しかし。
「ひぃっ!」
「ルイ様っ」
「え?」
部下の悲鳴に、エミディオは、早くも平野を駆け始めていた思考を、現実に戻した。
エミディオの乗る馬の足元まで転がってきた物へ、視線を落とす。
それは、話に聞いていた空色の髪を持った男の首ではなかった。エミディオと同じ金の髪をもった、彼より少し若い男の首だ。エミディオよりも赤みが強い瞳が虚空を見つめている。
「ル……イ?」
その男の名を呆然と呟き、エミディオは視線を上げた。
「ヒルトルート! どういう事だぁっ!」
足元に転がった首は、門上に立つ男ヒルトルートと組ませて城へと送り込んだ、彼の弟ルイ・アルジェンだ。同じ間諜であるルイの首と胴が離れたというのに、なぜ、ヒルトルートが無事なのだ。そもそも、なぜ、仲間であるあの男が、弟の首を投げてよこした?
「我はヒルトルート! この平野を治める辺境候、バルドゥル・ショランの第一子、ヒルトルート・ショラン!」
「なっ……」
「なんだと!」
「裏切ったのか」
エミディオの周囲に集まっていた騎士たちが、口々に叫ぶ。エミディオの間諜であったはずのヒルトルートは、鼻で笑った。
「裏切り? そもそもオレはセルペンのスパイだったというのに?」
エミディオは舌打ちをする。黒の民を信頼しすぎた。ヒルトルートを売り込んだ黒の民は、最初からセルペンに買われていたのだ。
それに気付かなかったエミディオが間抜けだとは思いたくない。向こうが、卑怯なのだ。
その卑怯者が、堂々とした態度で叫ぶ。
「エミディオ、貴様の望み通り、門を開けてやろう! 鍵は、お前と弟の首だ!」
その言葉のとおり、一年間微動だにしなかったセルペンの正門が、ゆっくりと開く。
「ふざけるな!」
エミディオは顔を真っ赤にして馬に鞭を打った。エミディオの馬が駆け出す。
「突撃っ!! 皆殺しだぁっ!!!」
それに遅れまいと、部下たちも駆けだした。誰もが男の裏切りに怒り、燃えたぎっている。
「そこに直れっ、卑怯者っ!」
「卑怯者で結構」
ヒルトルートの、悠然とした声が耳を打つ。
その声と同時に、門から街へと突入したエミディオと騎馬隊は、その疾走を強制的に止められた。
馬が、どうと倒れる。エミディオの馬が、隣を駆けていた騎士の馬が、後からついてくる馬が。
急に歩みを止め倒れる馬に、投げ出されて地面にたたきつけられる騎士もいる。
馬は元気だが、いきなり落馬する騎士もいた。
「弓兵……」
突入した先。大通りの正面に、左右に並ぶ家々に、背後の城壁に、戦士たちが弓を構えて待っていた。
「退けっ!」
慌てて叫んだが、遅い。急に止まることのできない騎馬達が次から次へと突入し、次々に撃たれていく。
だが、その数が、エミディオの予想よりも、少ない……
「?」
不審に思い、阿鼻叫喚の中、矢と人と馬の間をかいくぐって門へと向かう。
そこに見えたありえない赤色に、エミディオは絶句した。
それは、火のついた矢だった。
ヴァルシリオがそれと認識した時には、彼らは既に攻撃を開始していた。背後と山から現れた伏兵からだけではない。正面にいたカルーラ兵も、同時に火矢を放っている。
平原に見えるこの地は、フラビスの騎馬隊が踏み込んでから一年間、放置された荒れた田畑だ。
整えられることもなく放置された肥沃な大地は、様々な雑草で覆われていた。
そして、季節は秋。
冬の早いカルーラでは、草が、かさかさとした色に変わる秋分を過ぎ、枯草に露が付く寒露も終わろうとしていた。
放たれた火は、簡単に乾いた草を燃やし始めた。
敵は、騎馬隊の弱点を知っていた。
炎に脅え、嘶く馬の声が辺りに響く。前足を高く上げ、騎士を振り落とす馬、騎士の手綱を無視してあちこちに駆け出す馬。駆け出す馬にぶつかり、暴れる馬。
火に脅えた馬が、パニックを起こし暴れ始める。脆弱な人間に、我を失った馬を制御することはできない。成す術もなく、馬の恐慌に巻き込まれてく。
みるみるうちに、千二百の塊は、烏合の衆と化した。
動物は、火に脅える。それが本能と言うものだ。
しかし人は、その炎を道具として使うことで、恐怖を克服した。
つまり、この状況下で強いのは、パニックを起こした馬という足手まといがいる騎馬隊ではなく、自らの足で大地を踏み締めて戦っていた歩兵となる。
「くそっ!」
ヴァルシリオは自慢の馬をかろうじて制しながら、悪態をついた。彼の視線の先には、全く乱れる事なく、混乱中のフラビス軍へ向けて、進軍を開始したカルーラの歩兵隊がいた。
「南へ、河へ退けっ! 馬は捨てろ!」
ヴァルシリオの判断は、この状況の割には迅速と言ってもよかっただろう。それに対する部下たちの動きも上出来といえた。流石、訓練された軍隊だ、と称賛に値する見事な判断と、撤退と言えた。
それでも、全軍の何割かが、炎と恐慌状態の馬により負傷した。全軍の半数近くが愛馬を捨てた。そして、最後尾を先頭に、ヴァルシリオらを殿として、フラビス軍は、ピディス河へと撤退を始めた。
「くそっ! くそっ!」
悪態をつきながら、ヴァルシリオは今後のことを考える。
今回の戦は負けだ。それを認められないような判断力で、一軍の将になれるはずがない。
負けは、腸が煮え繰り返る程悔しい。しかも、背後からの伏兵、火攻めという卑怯な手段は許し難い。だが、それでも負けは負けである。仕方がない。将に必要なのは、今後どう立て直し、反撃するか、である。
騎馬をもつ無傷の兵を再編成して、渡河した橋を中心に陣を敷き直す。残りは、本国へ撤退。かなり戦線を後退させる事になるし、戦力も減るが、仕方がない。これ以上攻めるには、馬を失い過ぎているからだ。
しかし、全軍を撤退させることは考えていなかった。ヴァルシリオは一時的な敗北は許容できても、総合的な敗北を許容できるほど、度量は広くないのだ。
負けるくらいなら、全滅した方がマシだ。
心の底からそう思っていたし、第四軍に所属する全ての騎士がそうであると、信じて疑っていない。
「絶対、正面からぶっ潰す。覚えておけ」
呪詛に近い念を込めて呟き、槍を払う。風圧で、枯れ草が炎と共に散った。
ピディス河は、幸いにも穏やかだった。量も少なく、流れが緩やかだ。まるで澱んでいるかのように。
渡河に使った橋は、一年の間に立派な石造りのものに掛け替えられていた。しかし、幅が狭いため、橋を使っただけでは渡河が間に合わない。
「馬が元気な者は、そのまま渡れ。馬を失った者は、船だ」
ヴァルシリオは馬を駆って指示を飛ばす。水量が少なく流れが緩やかなのは、運が良かった。訓練された自分たちの馬なら、渡河も容易である。流石に平原を駆けるより時間が掛るし、動作も限られるので、カルーラが船で攻めてきたらひとたまりもないが、その心配はしていなかった。川を遡ることすら出来るというカルーラの技術力だが、陸を走ることは出来ない。ピディスの河は相変わらずこちらの支配下にあるのだから。
実際、平野を横切る河に、フラビスの粗末な船以外は見当たらない。
次々に騎士が渡河を始める。北を見れば、炎は目前までせまっていた。なぜ、今日に限って北風が吹くのかと、ヴァルシリオは舌打ちする。昨日までは、心地よいフラビスからの南風が吹いていたはずだ。
迫る火を見ながら、ヴァルシリオは渡河を急がせる。彼の手足同然の第四軍は、指示どおりほとんどが渡河を始めていた。ピディス河は、二国を隔てるのに十分な幅がある。退却部隊の最後が渡河を始める時になっても、最前列はまだ向こう岸についていない。
ここで、上流から船が突っ込んでくれば、全滅だろう。だが、上流のラクスラーマまで見渡せる開けた視界に、カルーラの船影は見えない。
この地に残るわずかな兵をまとめて、岸辺に立つヴァルシリオはほっと息をつく。
さて、後は残軍の退却場所を確保するだけだ。橋を中心に敷いた幕も、炎に包まれようとしているが、それまでには時間がかかりそうだった。川沿いに走らせ、一点突破。東にはまだ占領下にある町がある。この平野も、東半分はフラビスのものなのだ。
「……攻城部隊はどうなったんでしょうね」
「知るか」
ここでものんきな副官が、全く関係の無いことを聞いてくる。そんな事、この場を脱してから考えれば良い。
そう思いながらも、ヴァルシリオは従者が見ている方向――セルペンのある北へと視線を移す。視界が揺らいでいる。炎によって空気が熱されたせいだ。揺らめく風景に、灰色の城塞都市が見える。その手前で、何かがうごめいているような気がした。動きがあろうがなかろうが、逃げた後で彼らを呼び戻さないといけない。たとえ、城の占拠に成功していても、だ。占拠した城に立て籠もるという選択肢は、フラビス王国第四軍に存在しない。
草原を駆けてこその、我らなのだ。
ヴァルシリオが城へと視線を移したのは一瞬だ。すぐに彼は即座に振り向いた。
しかし、その一瞬で事態は動いた。
「なっ……」
轟音が響く。
ヴァルシリオは、目の前に展開された事態に絶句した。
緩やかなピディスの流れが一変していた。ピディス河は、轟音を立てて水を流し始めたのだ。
急に変わった流れに、河の中にいる馬も人も足をすくわれる。バランスを崩し倒れた人馬は、そのまま下流へと流されていった。
「これは、やばいっ!」
のんき者の副官が、初めて声を荒げた。
「将軍、橋が、流されますっ!」
「なに?」
従者の言葉に、ヴァルシリオは眉をひそめる。
「橋は、進行当初から補強しています。しかし、その基準は『今までの流れ』です。この流れは想定していない」
そう。それほどこの河は常に穏やかなのだ。それが、フラビス王国の、ピディス河の認識だ。
なのに、なぜ?
鉄砲水の原因を探る暇を、ヴァルシリオは与えられなかった。
いつの間にか鎮火していた平野から、圧倒的多数の兵士が現れたからだ。味方であるはずがない。黄の軍服ではなかったし、なにより騎兵が一人もいなかったから。
「最大の見せ場、と言うことか」
ヴァルシリオは馬に鞭を打ち、槍をかまえ直す。
「無傷の者は、俺に続けー!」
フラビス王国第四軍団長の声は、激しい水の流れにかき消された。
エドはチェルトラの南東にある高台で全てを見ていた。
コッコリオと繋がる峠道の途中にある広場だ。南は断崖絶壁になっており、眼下に激しく流れるピディスの河が見える。
「…………」
言葉も出ない。鮮やかな手際と言って良いだろう。
「純粋な攻撃力で劣る我々が勝つために、どうすればいいと思う?」
すでに決した勝負を目の前にして、フィーネはエド達に聞いた。
いざ決戦となった時、王女の護衛であるエド達は最も安全な場所へと配置された。前線で剣を振るえない王女は、戦いがすべて見通せる高みに移動したのだ。そこから彼女は指示を出す。モーラやセザールなど、彼女がお飾りの総大将ではないと知っている将軍達へ。
ここに来て、彼らはようやく魔法具を使用した。懐に余裕のある冒険者なら必ず持つ道具だ。音を蓄える力を持つ石を割って加工したもので、同じ石を持つものとなら、遠くにいても隣にいるかのように会話ができる。
だが、魔法は万能ではない。
この道具も、連絡には便利だが、簡単に盗聴が出来るものだ。また、魔法具の位置を感知する魔法や道具もある。考えなしに使うと、敵に情報が筒抜けになってしまう。
今になってそれを使うというのは、もう、やり取りが相手にばれても問題ない、という事だ。
気をつけるのは一点。総大将の位置がばれるという点だ。
カルーラに余力は無い。この、戦場が見渡せる高台には、総大将のフィーネ王女と、護衛のエド達しか居ない。エド達の役目は、総大将の首を直接狙う暗殺者から、彼女を守る事だ。
しかし、結局その魔法具は使われなかった。
戦況は、カルーラ側が望む方向に面白いほどよく転がり、彼女が危険を冒して軌道修正する必要が、まるでなかったのだ。
眼下に見える、燃え盛る草原と流れる激流。そして、開かれたセルペンの門が、それを物語っている。
「私達の最大の武器は、地の利なの」
戦は炎とともに鎮火の方向へ向かっていた。彼女はその一部始終を、言葉も表情もなくじっと見続けていた。
「うまくいって、よかった」
彼女はこの戦いが始まって初めて、こちらに顔を向け微笑みを浮かべた。
気持ち悪いほど、上手く行っている。
総大将として指揮をしながら、モーラは思わず舌打ちをした。
損害なく勝つのは良い。勝ち戦が、心地良くないわけがない。だが、この作戦を立てたのが、常勝の軍師ではなく、熟練の将軍でもない、半人前の小娘だと言うのが、悔しいのだ。
モータはちらりと視線を背後へ向ける。
彼女はこの光景を見下ろしながら、どんな表情を浮かべているのだろう。
決まった勝ちに喜ぶような可愛げがあるとも思えないが。
カルーラ軍が――フィーネが立てた作戦は、こうだ。
まず、平原では魔物も逃げ出すと言われる、フラビスの騎馬隊に、あえて平原で戦いを挑む。これは、国および貴族が要する正規兵で組まれた、本隊だ。フラビス軍が平原での激突を望んでいるのは、この一年の布陣で明らかだった。
だから、彼らの望む戦いを仕掛ける。
フラビス軍は嬉々として、平原の戦いに挑んできた。
これが、囮だった。
カルーラ軍は、フラビス騎馬軍が繰り出す最強の突撃を正面から受け止めるようにみせて、巧妙に受け流していた。突撃に挑むのではなく、素直に後退したのだ。そういう器用な真似ができるのが、集団戦闘の訓練をしている正規兵だ。個々の能力に長けていても、指揮官の指示に従う事に慣れていない冒険者には難しい。
それでも、それなりの損害を受けたのは、流石フラビス軍、と言うべきであろう。
フラビス軍の基本的な攻撃方法は、ヒットアンドアウェイ。突撃後、すぐに敵軍から離れる。優秀な騎馬を要するフラビス軍だから可能な戦闘方法だ。
そのアウェイを利用した。
突撃後、彼らが迅速に離脱している間に、突撃に耐えたカルーラ軍は前進する。突撃によって瓦解している訳ではなく、意図的に逃げていた訳だから、軍の統制は取れている。陣の立て直しと移動は、訓練されたのでカルーラ軍にとって難しいものではない。
一方フラビス軍は、突撃に必要な速度を得るために、敵と一定以上の距離を取ろうとする。フラビス軍が退いている間に、じりじりと前進したカルーラ軍との距離を取るためには、フラビスは突撃前より後方へ下がる必要がある。
そして、戦場は少しずつ平野の中央部へと移動していった。
本命の部隊。冒険者を中心とした伏兵が潜んでいる場所へ。
三々五々にやってきた冒険者は、北から東へと続く山沿いに配置させた。早く到着したものはより東へ、遅いものは北の森へ。
冒険者は少人数の塊だ。また、野外活動にも慣れているので、山々森に潜ませるのに向いている。
二度の突撃で、目的の場所まで進めたのは、運がよかった。二度の突撃で出た損害は、予想以上だったが、とにかくカルーラの正規軍は、伏兵の場所まで敵軍を導くことに成功した。
目的地は、平野の真ん中だった。最も広い場所で、北にはセルペン城壁が、森に沿って見える。田畑の区画は広く、土手は浅い。しかも、この一年放置した上に馬で荒らされまくったせいで、畑と用水路、そして道の区別がつかなくなっていた。フラビスの騎馬隊が最も好む場所だ。
すでに枯れて乾いた雑草が、風に揺れてかさかさ鳴る。
秋分あたりから徐々に増えてくる北山からの颪によって。
火計のタイミングを、フィーネは指示していなかった。
自分たちの仕事に誇りを持ち、自らの判断で最も優れた働きをするのが冒険者と言う人種だからだ。下手に細かい指示を出すと、彼らの良さを生かせないことを、さすがに彼女は知っていた。
「最高だ」
青空に走った赤い先に、モーラは思わず言葉を漏らす。
絶妙のタイミングで北の森より放たれた火矢は、風に乗りフラビス軍の右手に飛んだ。火は、乾いた雑草の燃え移る。そして、北風に煽られ平野を一瞬にして炎の海に変えた。
フラビス軍はおもしろいほど混乱した。
それでも最低限の統率を保ち、彼らは川へと走る。いや、逃げ道が風下の川しかなかったから、南へしか道がなかっただけだろう。そのまま川を渡りだした。
潰走である。
カルーラの目的は、侵略して来たフラビスを追い払う事だ。だから、この時点で勝鬨をあげても良かっただろう。
しかし、王女はそれを許さなかった。
フラビスに止めを刺すために使ったのは、カルーラの象徴である水だった。
襲いかかった鉄砲水に流された騎士達はどう思っただろうか?
絶妙なタイミングで襲って来た自然の脅威に、自らの不運を嘆いたのだろうか?
それとも、これすらカルーラの戦力であることに気づいただろうか?
人々は、カルーラの水軍の強さ、船に関する技術の高さを知っている。戦をするとしたら、他国は当然、水軍を警戒する。今回のフラビスも馬鹿ではないから、ラクスラーマ湖からの船に警戒していた。そのため、水軍を使うことが出来ず、膠着を招いてしまったのも事実だ。
しかし、この姫様は、それを逆手に取った。
「水軍が持つ技術は、この国の持つ技術の一端でしかないでしょう?」
軍議で、彼女の発言を理解したのは、フィーネの要望で戦場に来ていた文官だけだった。
「ピディスの河自体をつかうおつもりですか」
「そう。だから、あなたを呼びました。ラーマ奪還軍に同行してもらいます」
治水を行うこの文官には、それだけで彼女の意図が読めたようだ。
「『春』ですか?」
「いや、この季節は『秋』でしょう? 『春』はやりたくない。今、『春』をやると、来春に障ります」
「そうしていただけると嬉しいですね」
「やるのは『秋』から『冬』そして『夏』です」
文官は、一瞬言葉を失った。
「……凄いことを考える」
彼がようやく押し出した言葉に、王女はふわりとほほ笑んだ。
武官であるモーラは、彼らの会話の意味が殆ど分からなかったから、後で素直にフィーネに聞いた。蘊蓄好きの彼女は、嬉々として教えてくれた。
ピディス河にはカルーラ管轄の大きな二つの水門がある。ラクスラーマ湖のすぐにある竜頭水門。シャフロン平野下流にあるラーナの街よりもう少し下ったところにある竜尾水門。この二つの水門を開閉して、ピディスの流れや水量を調整しているのだ。
この、自然の水を調整する技術こそが、フィーネの言う『水軍以外の技術』だ。
「春夏秋冬は、この二つの門の状態を表します」
「二つの門の開閉の組み合わせが、四通りだから?」
「そういうこと」
フィーネは、出来の良い生徒をほめる教師のような顔で頷いた。
彼女の説明によると、それぞれの状態はこうだ。
『春』は、竜頭を開き、竜尾を閉める。よって、ピディスの水量が増える。名の通り、春、門をこの状態にするのが一般的だ。春は種まきの季節である。水が大量に必要なのだ。あえて川の水を溢れさせている場所もあるらしい。
『秋』は逆である。竜頭を閉め、竜尾を開く。結果、ピディスの水量は減る。当然、秋にこの状態にすることが多い。豊饒の季節は水がない方がいい作物が多いからだ。それに、冠水などしたら、せっかくの作物が水に浸かって台なしになる。
実際の季節と門の状態を表す季節が一致するのは、この二つだけらしい。
残りの二通りのうち、二門を開けている状態が『夏』で、逆にすべての門を閉じている状態が『冬』であるが、これらは便宜的にそう呼ばれているだけで、必ずその季節にその状態になるとは限らない。
「じゃあ『秋』から『冬』で、『春』を飛ばして『夏』……という事は」
「まず、季節通りに上流の門を閉めて下流を開けることで、ピディス河の水量を減らします。そのあと、下流の門を閉じると、ピディスは水量の少ないままの流れが緩やかになります」
春先から夏にかけて『冬』にすると、ピディス河に直接流れる川の水量が雪解けの水や降雨によって多くなる。そのため上流からの流れる水量が減ってもピディス河の水量は少しずつ上昇していく。だが、今は秋。夏に溶けるべき雪はすべて溶け、大陸南部を荒らす秋嵐はカルーラまで来ないため雨が少ない。そのため、水位は低いまま、川の流れだけが緩やかになる。
「わざわざ、向こうを有利にするのか?」
「そう」
一年前、フラビスが攻めてきた時は、『秋』の状態だった。だから、渡河が容易だったのだ。それに加えて流れが緩やかになれば、馬を扱うのがうまいフラビスの騎馬隊なら、馬でピディスを渡河することも容易だろう。
「逃げ道を、作ってあげるの。あれなら、渡って祖国に撤退できる――と、思わせるわけです」
「うわ、性格悪っ」
ようやく彼女の作戦が見えて、モーラは思わずうなった。あの文官が「凄い事」と言った意味が分かった。
「上下の門を開けたら、洪水にはならないけれど、流れは速くなります」
フィーネは、姫君らしからぬ笑みを浮かべた。
「『冬』から『秋』や『春』を経ずに『夏』にすることは、普段は絶対にありません」
フィーネは目を細めて南を見る。モーラも知らずとそちらへ視線を向けていた。二国を隔てる大河のある方へと。
「ラクスラーマの水がピディスを望む力と、ピディスの流れが外海を求める力を見れる、一生に一度もないチャンスよ。私も見たことが無いわ」
当然だろう。彼女より年上のモーラだって、見たことが無い。
問題は、竜尾水門があるラーナが、フラビスによって占領されている事だ。
フィーネの立てた作戦を実行するためには、決戦の前にラーナを取り戻さなければならない。その為の行動は、彼女どころか、事実上の総大将であるモーラが戦地に赴く前から始まっていた。
夏の始まり、芒種の頃、ラーナ解放を目的とした軍は北からラーナへと進軍を開始した。フラビスとの小競り合いと、セルペンの籠城戦を目晦ましにして。
土地勘がない者は、シャフロン平野の北はルクシスの山だと思いがちだが、実はそうではない。前山とルクシス山脈の間には大きな谷があり、そこにいくつかの街が存在している。道を急ぐ冒険者くらいしか使わない道だが、直接シャフロンへ至る道も存在していた。ラーナ解放軍は、シャフロンと山をはさんで北東に存在する街から出立したのだ。
モーラも、北東の谷で一番大きな街で行われた出立式に、立ち会っていた。アドルも冒険者の仕事を理由に様子を見に来ていたらしいが、捕まえる前に逃げられた。そこが、何人目かの婚約者の家が治める街オルシスだ。
ラーマ解放軍は、そこから何ヶ月もかけて、ゆっくりと進軍した。決して、フラビスに見つかってはいけない。そして秋、ついに解放軍はラーナを奪還した。
王女が戦場に現れたのは、ラーナ奪還の報を聞いたからだ。
その頃から彼女は作戦を立てていたのだっだ。
ラーナを奪還することにより取り戻した、フラビスの知らないカルーアの最強の武器、ピディス河。その力を目の当たりにして、モーラは絶句した。
それは天災と言っても良い力強さで、フラビスの騎馬隊を橋ごと押し流した。
圧巻、の一言に尽きる。
敗走すら整然としていたフラビス軍は、この人工的な自然現象で遂に瓦解した。
そのあとの抵抗など、小さなものだ。
敵軍の総大将はどうなったのだろう。フィーネは、彼に対して何の指示もしていない。どうでもいいのだろう。逃げ帰ろうが、川に流されようが、掃討戦で斬られようが、捕まろうが。
目的は、敵軍を壊滅に追いやって、フラビス国王に、出兵を後悔させること。二度と、カルーラに手出しさせないようにすることだ。
「大勝? 大逆転?」
そう聞けば、彼女は表情も変えずに答えるだろう。モーラには、分かる。
「単なる結果です」
決戦の日は、計算しつくされていた。
北山からの颪は、巫覡による占いで知ることが出来る。山の中を這って下流へと赴きラーマを奪還し、それが敵軍に知られないタイミングを逆算する。その逆算に合わせるように、山に伏兵を配置する。
魔法具や呪文による連絡は、盗聴されるのが当然だったから使えない。だから、山に住む黒の民に連絡役として協力を仰いだ。彼女が苦心したのは、各署へ配置した隊との連絡だけだった。
しかし、その苦心は功を奏した。
全ての策が、見事なタイミングで実行された。策は見事に為された。芸術的な程に。