姫と執事と吸血鬼と 8
魔物を倒す方法は、実は暴力だけではないと、フェイスが後で教えてくれた。
「特に、人だったモノの場合、そちらの方が良い事もあるんですよ」
その方法が、魔物の核となる想い、世界の輪から外れるほどの強い妄執から解き放つ事だ。原因を見つけ、魔物に潜む、そうなった原因を取り除く事で、魔物を『倒す』。そういう優しい魔物退治の方法もあるのだ、と。
もっとも、全ての魔物にそれが可能という訳ではない。むしろ、稀なケースと言えよう。今回は、互いに運がよかった。
「わたしは、間違っていなかった?」
「方法は、間違っていましたけどね」
フェイスが笑う。
「普通入ることが許されない図書館で、姫の話は正しいと、確信しました」
彼は、かわいそうな存在なのだと。最初の犠牲者、マルタ姫の事を思っている、幼馴染の執事なのだと。そんな彼を救いたいと、姫は言った。だが、彼女はその情報源を教えなかった。だから、アドルは閉ざされた公式の記録を調べたのだ。
彼が見つけたのは、最初の姫と同時期に登録が抹消された使用人。死亡でもなく、退職でもない、ただ消された痕跡が、その図書室に保管された記録に残されていた。
その存在は、驚くほど幼い時から城に勤めていた。死亡した姫と同年代で、驚くほど速いスピードでその地位を上げている。抹消当時、彼は単なる使用人ではなく、姫付の執事となっていた。
抹消された執事の名は残っていなかった。だが、マルタの日記には残っていた。それも、沢山。
その名は、ヴァルター。
「そこまで分かれば、簡単でしょう?」
「そうね。すごく簡単」
どこか思考回路が似ている二人が、ふふふと笑い合う。こういう時に下手に触れても良い事は無いと知っているシリルは、曖昧な笑みを浮かべて黙った。
「にしても、なんで、出来ないって嘘をついたの?」
イレーネの質問に、フェイスは首をかしげる。
「ヴァルターさんを、救うことは出来ないって」
「あぁ」
フェイスは目を細めて微笑む。
「運がよかったんですよ、本当に……」
ヴァルターは、自らが存在する意味を知り、存在する意味がなくなったのを、知った。
忘れていた『満たされた気持ち』を思い出し、それと同時に自分という存在が、希薄になっていくのを感じる。今まで拒んでいた世界が、自分を招き入れている気がした。
怖かった光が、恋しく感じる。自分はかつて、この光の中にいた。
許されるのだろうか?
こんな、非道な魔物の存在を。
いや、許されなくても良い。むしろ、許して欲しくない。
ただ、満足していた。
それだけだった。
「いいの?」
穏やかな世界に、どすんと重みのある声が落ちてきた。
いや、声自体は決して重くはない。女にしては重みがあるかもしれないが、男としては軽すぎる。だが、その声は、ふわふわと中空を漂っていた彼の意識を地へと叩き戻した。
「まだ、始まったばかりなのに?」
結んだ焦点の先に、のぞき込む青い瞳があった。
―― バカアドル! 煽るな。
遠くから怒鳴る声が聞こえたが、青い瞳はそれを無視した。
「見届けたくないかい?」
「ミ……タイ」
思いを言葉にするのが難しい。
「ウソ……ジャナイ、カ。サイゴ……マデ」
―― 空から、見ていて下さい。
可憐な声が、遠くから囁いた。
視線を上げると、紗幕越しに、似ているが全く違う緑の少女が、真っすぐにこちらを見ている。彼女の傍らにいる男が口を開いた。
―― 僕たちの望むような、貴方が求めたような未来を、掴んで見せます。
ありがとう……
こんな自分を、こんなに優しく見送ってくれて。こんな自分に見ていてほしいと願ってくれて。
本当に、見届けたかった。
だが、無理だろう。
自分はもう消える。それだけは、分かっている。
また、視界が歪んだ。
歪んだ視界の中で、青い陰が動く。
「流石に城に勤める訳にはいかないけど、幸いこの街には、素性不明のものでも受け入れる場所がある」
この声は、不思議だ。
紗幕のかかった世界から、この青い髪の少年の声だけが現実味を持って入ってくる。
―― 無茶だ!
―― やってみないと分かりませんわ。
―― 領主の伯母と同世代なら、生きていれば70前後だろう? まだ、いけるよ。
彼の言葉に紗幕の中から叫ぶ声が聞こえた。彼はヴァルターに気にするな、と言ってから、おもむろに歌い出した。
今まで聞いたこともない歌が、紗幕から入ってきた。
歌は単純だ。短いフレーズを繰り返すだけ。歌詞はない。2回聴いて、音を覚えた。5回聴いて、歌いたくなった。
10回聴いて、彼はついに歌い出した。
くるくると回るような旋律。歌までもが輪を描く。
その中で自分が踊っているような感覚に襲われる。
彼は、その歌声が変わってきているのに気づかない。
声だけでない。
自分の身に起きていることに気づかない。
彼は夢中で、この楽しく心地よい旋律に身を委ねていた。
「見つけた!」
がしっと、ヴァルターの腕を掴んだアドルの声で、彼は我に返る。
気が付いたら、世界を覆っていた紗幕が取れている。光の中に、現実が、はっきりとある。
光が象る現実で、アドルが頬を赤くして、満面の笑みを浮かべていた。
エドが、ほっと息をつく。シリィが満足そうに唇の端を上げる。フェイスが、胸の前で両手を組んで、大きな目を潤ませている。
イレーネ姫と、シリルが、互いに抱き合いながら、こちらを凝視していた。彼らの顔に浮かぶ感情は、驚き。
アドルが、右手を差し出した。
「初めまして!」
反射的に彼の手を握った自分の手を見て、ヴァルターはギョッとする。皺の寄った、知らない手。
「私はアドル。貴方の名前は?」
「ヴァルター……」
自らの声に、さらに驚く。
かすれた声は、喉の不調によるものではない。これは……
フェイスがそっと鏡を差し出した。
促されるままにそれを覗き込むと、見知らぬ男がいた。柔らかな金色の髪は褪めているが、しわが刻まれた顔から覗く碧の瞳は、良く知っている。これは、知った顔だ。ただ、彼が知る姿から、50年程、経っている。
これは、自分?
なぜ、こんな姿に?
「すてきな老紳士です」
フェイスがにこりと笑った。
「これは、僕?」
ヴァルターは、呆然と鏡の中の自分を眺めた。
「そうです」
顔をあげると、アドルが満面の笑みで嬉しそうに頷いた。
「あなたはちゃんと、生きて、齢を刻んでいたのですね」
カルーラ聖王国の北にある、オルシスで、一つの歌が謳われている。
姫と執事と吸血鬼のお話。
姫が吸血鬼に狙われた。
密かに思いを抱いていた執事が、彼女を守り、吸血鬼を倒す。
決め手となったのは、押し殺されていた、二人の愛。抑圧された感情が解放された時、その力は吸血鬼を倒す、必殺の魔法となった。
若い女の子が好む典型的な物語だ。
ただ、これは少し違う。
「面白いよね。二人の愛を見て、吸血鬼が改心するなんて」
この町に立ち寄った冒険者が、この町にできた新しい物語を聞いて、笑う。
そう。この物語は、魔物を倒して終わりじゃない。
倒した魔物が、改心し、二人を祝福して終わるのだ。
姫と執事と吸血鬼と。
彼らは幸せに暮らしたとさ。
完全無欠のハッピーエンドである。
「こんにちは」
開け放たれたギルドの扉から、この空間に似合わない華やかな女性が入ってきた。後ろから、やはり似合わない善良そうな男性が。
「やや、ようこそ」
腰の重い事務のルーディが、素早く立ち上がって彼らを迎える。地元の冒険者が暖かな笑みを浮かべ、彼らを歓迎した。旅の冒険者だけが、不審そうに彼らを見る。
「お待ちしておりました、領主様」
ルーディが恭しく女性の手の甲に口づけをする。彼女の持つ肩書に、旅の冒険者はぎょっとする。領主という存在が、自らギルドにやってくるだなんて、聞いたことがない。
「ヴァルターは元気?」
席に通された女領主は、開口一番たずねた。ルーディは笑顔で頷いて、視線を店の奥へと移す。
奥から、老齢の男性が、盆を片手に現れた。
もう隠居しても不思議のない年齢だ。褪せた金髪は、殆どが白髪である。だが、背筋がすらりと伸びていて、盆を持つ姿は、若いウエイターとは比べ物にならないくらい、様になっている。
彼は、領主に向かって一礼をした。
「お元気ですか、イレーネ様、シリル様」
老人ヴァルターは穏やかに尋ねる。
「この度は、ご成婚、おめでとうございます」
「……呼べなくて、ごめんなさい」
いえいえ、とヴァルターは首を振る。
「パレードは見ましたから。涙が、出てきました」
この領主夫妻が結婚するまでには、紆余曲折があった。この、ギルドの年老いた給仕も、その一端であることは、領主夫妻と、既にこの地にいない冒険者だけの秘密である。
「姫……いや、イレーネ様」
彼女が好きな紅茶をテーブルにおいて、ヴァルターは尋ねる。
「幸せですか?」
「とても!」
曇りのない、若き女領主の表情に、ヴァルターは目を細めて頷いた。
話は、溯る。
領主の城と一部の冒険者だけを巻き込んだ小さな事件が解決し、ギルドに年老いた新人が入ってすぐの頃。
ギルドで一人の男が、杯を傾けていた。
「おまたせ致しました」
まだ慣れないヴァルターが、注文した料理を男の元へと運ぶ。若いころに染み込んだ、貴族へ対する給仕は、この店では酷く浮くと若い先輩に笑われた。しかし、この客は例外だ。ヴァルターの、貴族の執事として磨かれた所作が、妙にしっくりする。
恐らく、それなりの出自で、きちんと教育を受けた者なのだろう。
「依頼ですか?」
ここに来る者で、やんごとない身分の者は客だと、彼は教わった。だから、小奇麗で品のあるこの男は客だろうと、ヴァルターはあたりをつける。しかし、男はニヤリと笑って首を横に振った。
「冒険者だ。道楽で危険を冒す、貴族の次男坊のね」
濃紺の髪を持つ高貴な冒険者は、楽しそうに彼を見てから、おもむろに手に持つ杯を掲げた。
「お代わり、いいかな?」
ヴァルターは、青年貴族のテーブルを見た。そして、足元へ視線を移す。彼の回りに転がるのは、嘆きたくなるような質の悪いワインのビンだ。絶対悪酔いするであろうそれが、空の状態で何本も転がっている。全て、彼の作品だ。
「飲み過ぎでは?」
文字通りの老婆心で尋ねれば、俺が酔っているように見えるか? と逆に問い返された。日に焼けた肌に、不自然な赤みはない。青い瞳は灰色がかっているが、濁っている訳ではない。これが彼の瞳の色だ。
「……ぱっと見では、見えませんね」
表面は、酔っているように見えない。口調もしっかりしている。
「だろう? 大きなお世話ということだ」
くいっと彼は再び空の杯を掲げる。要求しているのは、この杯を満たすワインではない。既に満たされたワインのビンだ。
「文句言うなよ」
灰色がかった青い瞳を細め、男は苦笑する。
「振られ男はやけ酒しかないんだから」
「…………」
振られた悲しみのかけらもなく、彼はさらりと言った。だが、ヴァルターは言葉を失った。
そんな老爺に、男は豪快に笑いかける。
「そんな神妙な顔をするな。俺だって望んだ縁談じゃない」
「しかし」
「それを口実にすれば、どれだけ不味い酒を飲んでも文句を言われなくて、良いんだよ」
「…………」
今度は別の意味で言葉を失う。
「しかし、偶然と言うにはふざけ過ぎている」
「何が?」
答えはない。彼の独白だったようだ。
「意図して邪魔をしたわけじゃないだろうが、どうも、相性が悪いな、俺達は」
男は独り、自嘲して、杯を傾けた。しかし、空であることに気づいて、盛大に眉をひそめる。
「おいっ!」
貴族独特の命令することに慣れた声が、ヴァルターの老いた背を打つ。
彼は慌ててワインを取りに戻った。
「しかも、歌に追いついたかと思ったら、本人はもういない」
男性の独白は、ギルドの喧躁に消える。
「アドル……」
彼は指で杯を弾いた。
「フィーネ……我が盟友よ」
質の悪い杯は、鈍い音をたてるだけだ。
喧躁の中で、この地に生まれた新たな歌を歌う声が聞こえる。
彼はその声の拙さに、眉を潜めた。