鏡面翻弄 5
夜――人目を隠れ忍ぶように、逢瀬を交わす男女がいた。女性のほうももちろんだが、男性は特に上質な服装に身を包み、腕を組んで歩いている。それはまるで、精一杯お洒落をした女性と、許されない恋をする貴族の男性の、密会現場のようだった。
しばらく歩いたその二人は、人気のない公園で立ち止まる。女性の大きな琥珀色の瞳が、月明かりを反射して、甘い目線を男性に送った。
ふと途切れた、会話の切れ間。ほんの一瞬の沈黙が流れて、やがて男女は、どちらからともなく目を閉じる。そのシルエットが、ゆっくりと一つに重なって――
「――はい、そこまでっ!」
ガギイィィンッ、と、高い金属の音がした。横合いから飛び出してきた黒い影が、女性めがけて突進してきた黒い影の動作を阻む。黒い影はたたらを踏んで、一歩後ろに退いた。着地するや否や、何かを察したのか黒い影はさらに後ろへと飛び退いて、半瞬遅れてその場に何かが突き刺さる。
次の瞬間、炎の魔力がこの場を舐めるように駆け抜けて、周囲を明るく照らし出した。近くのかがり火が赤々と燃え、この場の人物を闇夜からぼうっと浮かばせる。
上質な服装に身を纏った男性は、ニーロ・ハミルトン。その隣に立っていた、大きな琥珀色の瞳を持つ、彼の“恋人”――フェイス。
「ひゅう。話に聞いていた以上にホラーだな、こりゃ」
「…………!!」
そして、突撃してきた黒い影は――ペリル・ミロワールだった。それを見て、その突撃を阻んだ主、ベルド・エルビウムが口笛を吹く。
ペリルの姿は、全身返り血にまみれていた。そんなペリルに、いつものおどおどしたような色は微塵もない。憎悪に燃える勝気な瞳が、フェイスを睨みつけていた。
「手を抜いたつもりはなかったが、避けられるとはな」
近くの草葉から、弓を携えて出てきたのは、エドだった。かがり火に一瞬で火をつけたヒオリも、ベルドの隣にポジションを変える。
「お疲れ様、フェイス。名演技だったよ」
「お褒め頂き光栄です」
拍手をしながら、アドルとシリィが歩いてくる。その二人に守られるようにして出てきたのは、いつものおどおどした表情を浮かべる、ペリルだった。無骨なナイフを構えるペリルと、怯えた表情をしているペリル。まるで鏡に映したようによく似た二人は、しかし断じて違っていた。例えるならば、猫の子と虎の子の眼光が、似ていても決して異なるように。
「書物通りなら、出来るんだろ? せいぜいあがき苦しんでくれよ、鏡弄女」
「ベルドさん。それ、悪役の台詞です……」
力なく突っ込んだフェイスの横で、アドルは先ほどの話を思い出していた。
彼女が異変に気付いたのは、昨日の夜だった。風呂に入っていたペリルは、ふと自分の姿が鏡に映らないことに気付いたのだ。そのときは何かの間違いかとも思ったけれど、夜遅くに見てみても、やはり姿は映らなかった。恐怖に震えながら朝を待ち、覗いた鏡に映ったのは――
「この姿だったっていうわけか。それは、悲鳴が上がるのも無理はないね」
そう。この、血まみれの自分の姿だった。
だから、今朝悲鳴を上げて駆けつけた際、フェイスは風呂場の入り口で槍を構えて立っていたのだ。ペリルが悲鳴を上げたのは、鏡に映った自分の姿。だからこそベルドやヒオリもその正体に気付かなかったし、ペリルは全てを隠そうとした。
この報告を聞いたアドルは、ニーロに全ての事情を話して協力を要請。ペリルはニーロに知られたくないのか、話すことを渋っていたが、さらなる被害者が出る危険性を考えれば、ニーロの協力はどうしても必要になってくる。一日目は、ニーロをめぐってペリルと喧嘩をした少女が犠牲になり、二日目はニーロと懇意にしていた使用人が犠牲になった。見境があるのかないのかは知らないが、“ペリル”が狙うのは、ニーロと仲のいい女性。そこでアドルは、フェイスにニーロの恋人役を演じさせ、魔物をおびき出す作戦を取った。恋人役がフェイスなのは、ペリル本人がヒオリはベルドとべったりなのを知っているし、シリィでは色気や演技力に疑問があると思ったからだ。
効果は見ての通り。魔物は見事にアドルの張った罠にかかり、夕方から用意されていたこの場所へと引きずり出されてきた。ちなみに作戦を練ったのは、アドルとフェイス、ニーロの三人で、シリィとペリルは図書館へ行ってこの魔物の情報収集。かがり火を作ったのは、ベルドとヒオリ、エドだった。
魔物の正体を知った彼らは、全員揃って驚愕した。それもそのはず、その魔物は、鏡に映る姿を乗っ取り、被害者が心に持っている願望を悪意ある方向に反映する、あまりにも独特な生態を持っているものだったからだ。人を殺すことで力を蓄え、被害者を逆に鏡に映る姿として取り込んでしまうか、自殺に追い込むかして、命と一緒に負の感情を取り込もうとするのだという。姿が映るものを媒介にすれば自由自在に鏡面と現世を行ったり来たり出来るとのことで、この記述を見たアドルたちは、すべての謎が解けるのを察した。だから、商店街の入り口付近……鏡のある服屋で目撃情報が途絶え、警備の厳重な貴族屋敷をものともせずに侵入できたというわけである。
しかし、これらの記述はすべて憶測の域を出ていないらしく、文献にも有力な記述は見受けられなかったが、それはこの魔物が突然変異で生まれたとされ、個体数も極端に少ないとされているからだった。伝説級とはいわないが、限られた地域で極めて稀に確認される程度というほどの希少種である。超一流の冒険者である彼らでさえ、ただの一度も見たことのない魔物であった。ここから遠く離れた地を主な冒険場所としていたベルドとヒオリの二人など、今日という日を迎えるまで存在すら知らないほどだった。
ちなみに強さは、人を殺して力を蓄えるという生態上、殺した人数によってまちまちであろうことが考えられるが、その目撃例のあまりの少なさに明確なことは分かっていない。ただ、その存在を記された書物には、それなりの経験を積んだ四人の冒険者パーティが、一人を残して瞬く間に全滅させられたとされ、生半可な実力者ではこいつとの遭遇はすなわち死を意味するといっても決して過言ではないという。前述の通り、姿が映るものを媒介にすれば自由自在に鏡面と現世を行ったり来たり出来るため、アドルたちは姿の映るもののない、この場所を戦場に選んでいた。
そんな強敵を前にして――無駄とは知りつつ、アドルは会話に持ち込んでみる。
「理由はあえて聞かないけどね」
「答える必要もないでしょう?」
「違いないね」
説得するなどできないだろう。直感的に、アドルは答えを理解していた。この鏡面少女を含め、言葉が通じる魔物も多いが、今回は相手の情報があまりにも少ない。望むべく答えなど、引き出せるはずもなかった。少女はどこか楽しそうに笑うと、ペリルに言葉を投げかける。
「ねえ、ペリル。何をそんなに怯えているの? ちゃんと、貴女の障害は排除してあげたでしょう?」
「そんなことっ――そんなこと、望んでいません!」
「そう? 好きな人の愛情を得るには、どんな手段でも使うべきだと思うけどね」
気丈に答えを返したペリルに、少女はやはり楽しそうに笑う。その横で、ベルドがそりゃそうだと頷いた。
「共感できるところはあるね。欲しいもんがありゃ、全力で奪いに行くのは当たり前だ」
「あら。分かる人には分かるのね。どうせなら、貴方の鏡像を乗っ取ればよかったかしら?」
「そりゃ勘弁。必要とあれば殺すことも仕方がねーが、無意味に犯罪をするような奴に、乗っ取られるのはごめんでね」
「ベルド!」
声を上げたのは、フェイスだった。聖職者である彼女には、人を殺すことを避けるどころか、殺しておいて平然としているベルドは許せないのだろう。しかしベルドは、軽薄な声で言葉を続ける。
「ま、最低限の礼儀として、殺した奴を迂闊に罵倒しないってこともあるけどな。いやはや、死ねば仏とは昔の人もいいこと言ったぜ。とゆーわけで、ゴーンとかも殺した時点で十分だし、死者に鞭打つような真似は一切しねーから、くれぐれも墓の下から黄泉還ったりしないでほしいもんだね。我輩の切なるお願いであります」
へらへら笑って軽口を叩くベルドの姿は、この驚異的な強さを持っている魔物を前に、一歩も怯んでいない証拠だ。アドルはやはり無駄を知りつつ、ペリルの姿をした少女の魔物に言葉を投げる。
「その鏡面をペリルに返して、しかるべき償いをするのなら、私たちも武器を抜く気はないが……」
「それを聞く気があるとでも?」
「ないだろうね。……それなら、仕方がない。ニーロとペリルから依頼を受けているし、これ以上の被害者を生むわけにもいかない。悪いけど、倒させてもらうよ」
アドルの言葉に、鏡面少女はつまらなさそうに言葉を返す。
「ご大層な大義名分ねぇ。そんな仮面なんか取っ払って、もう少し自由に生きたらどう?」
「生憎、人は自分の他にも、誰かのために生きているものだ。そういう大義名分を抱えて、戦うこともあるってことさ」
「だって。貴方、どう思う?」
やはりつまらなさそうに聞いた少女は、ベルドに向かって話を振った。対するベルドも、にやりと笑って言葉を投げる。
「よーく分かるぜ、お前の気持ち。じゃあ、こうしようか」
綺麗な歌声で船乗りを誘う、セイレーンという水の魔物は、非常に享楽的で快楽的な生き方をする者が多いという。ペリルの姿をしたこの魔物も、そいつらと同じなのだろう。
そして、時と場合を絞るならば、ベルドでさえも。
「お前を倒せば、相場以上の報酬が入る。それ以前に、書物の中で圧倒的な強さを誇ると伝えられる鏡の魔物と、一度全力で戦ってみてえ。そして、人が真にその全力を出せるときは――」
「己の命がかかっている、その時だ、と言いたいわけね」
「その通り。――武器を取りやがれ、鏡面少女」
ベルドは右手で武器を構え、左手で鏡面少女に向かってかかって来いと合図する。それを見て、鏡面少女は右手でおもむろに手刀を作ると、それを袈裟懸けに振り下ろした。手刀の軌跡が空間を切り裂き、中から真っ黒な体色をした影の魔物が三体ほど現れる。
「いいわ。貴方のこと、気に入った。私が勝ったら、この女の体は返してあげるから、貴方の姿を乗っ取らせてもらうわよ。それでこの人を殺してみるのも、一興ね」
その目線が向けられる先は、アドルだった。アドルは小さく笑みを漏らすと、鏡面少女を見つめ返す。
「残念だけど……まだ私は、殺されるわけには行かなくてね。だとするなら仕方がない、倒させてもらうよ」
剣を構えるアドルの前で、少女の顔が喜悦に歪む。
「それなら、やってごらんなさい。綺麗事の、勇者様?」
鏡面少女が、鏡の使い魔に指令を飛ばした。
「行っくぜえぇ!」
鏡面少女との戦いで、先手を取ったのはベルドだった。対する少女も、ナイフを構えてベルドを正面から迎え撃つ。剣とナイフが激突し、散った火花の影から少女が蹴りを放ってくる。腹に強烈な一撃を食らい、ベルドは地面を何度も転がって衝撃を逃がした。
追い討ちをかけようとする少女の前で、エドがナイフを投擲する。少女はそれを払い落としたが、そこへアドルの袈裟懸けの一撃が襲い掛かった。少女は身を捻って攻撃を回避しようとするも避けきれず、刃は少女の右肩部分に食らい付き、服と表皮の一部を抉り去る。しかし、所詮その姿は鏡に映した具現の魔物、急所にはなっていないのだろう、まるで何事もなかったように、アドルに反撃を仕掛けてくる。
「くっ!」
十分に力の乗った一撃を、アドルは剣で受け流す。空振りした拳は止めることなく、少女はその勢いのままにアドルの右隣をすれ違うように抜けていく。同時、逆側の肘が空気を切り裂いてアドルの脇腹を殴り付けた。咳き込んだアドルの剣を持つ手を少女は蹴り飛ばそうとするが、それより先にヒオリの術式が炸裂する。
「食らいな!」
続けざまに、シリィが杖から吹雪を生み出し、敵全体を纏めて飲み込んだ。一瞬遅れて、エドが曲射を打ち込みざま、射撃の影に隠れるように二本目のナイフを投擲する。と、別の使い魔が横から飛び出し、攻撃直後のエドを仕留めようと襲い掛かった。
「ギ!?」
が、そこへフェイスの槍撃が割って入った。一突き目で怯まされ、エドは即座に反撃体制。腰の乗った強烈な拳が、鏡の使い魔に直撃する。痛覚と衝撃にたたらを踏んだ使い魔に、フェイスの二撃目が炸裂した。
刺突の技は、点という狭い範囲を狙う攻撃であるが故に、回避がたやすく、初太刀で決まることは比較的少ない。そのため、槍の最も基本かつ攻撃力の高い“突き”の有効打を食らわせるには、実際には突く動作よりも引く動作のほうが重要であるといわれていた。構えを素早く元に戻すことが出来なければ、戦闘においては後手に回る。刺突において、引く動作は次の一撃を洗練するための重要な動作ではあるものの、その特性上どうしても隙だらけになってしまうものだった。そのため、槍を扱う鍛錬においては、突くよりも引くほうに多くの時間を割くほどだ。
それらの点から考えれば、フェイスの槍を引き戻す速度は驚異的といってもいいだろう。回避がたやすい“点”の攻撃である刺突は、その代わり“線”の攻撃である斬撃に比べ、格段に高い密度があった。刃先全てが埋もれるほどの一撃は、まず間違いなく致命傷になっただろう。
だがしかし、深く突き刺さった槍は、いかな使い手といえども引き抜くには多少の時間がかかる。隙だらけのフェイスに、後ろから三体目の使い魔が襲い掛かってきた。
「させるかっ!」
と、その横っ腹を殴りつけるようにベルドの斬撃が襲い掛かった。声と共にベルドの剣が赤く輝き、燃え盛る炎の力を宿して襲い掛かる。動きが鈍った鏡の魔物に、アドルが強烈な追い討ちをかけた。が、それに割って入るように、少女がアドルに拳撃を振るう。それをヒオリが氷結の術式で迎撃すると、アドルは体勢を立て直しざま、少女にターゲットを変更した。
アドルの剣が多方向から同時に少女を襲い、少女はそれを魔力を纏った両の手刀で撃ち落とす。はやぶさのごとき連続攻撃を弾き飛ばし、今度はこっちの番だとばかりに少女の連撃が炸裂する。対するアドルも剣でそれを弾き上げ、返す刀でもう一撃。少女はそれを受け止めるが、アドルは素早く剣の握りを変更し、かち合った剣を引くようにして自らの体を引き寄せる。至近距離まで滑り込むと、裏拳気味に鋭く一撃を叩き込んだ。
「ぐっ……!」
さすがに回避することは出来ず、その攻撃は少女の鼻の横を痛打する。結果に対して、アドルは内心舌打ちをした。今の一撃は、直撃していれば鼻を砕くか目を潰したかしたはずだ。それを証明するかのように、少女の苛烈に光る眼差しが、アドルの攻撃が有効打ではあっても決定打にはならないことを語っていた。咄嗟に剣を横にして側頭部に掲げたアドルの前で、暴風のごとき右回し蹴りが炸裂する。
「ぐっ!」
ガードが間に合っていなければ、頭蓋骨を粉砕されたかもしれない。それほどの威力が込められた蹴りに、アドルは視界がぐらつくのを感じる。シリィが魔法を起動したが、少女は左手を突き出した。次の瞬間、少女の目の前に鏡のような光の壁が作り出され、シリィの魔法を跳ね返す。
「なっ!?」
衝撃に目を見開く間こそあれど、シリィは魔法を避けようとする。魔法こそは避けられたものの、その行動に完全に意識を持っていかれた。使い魔がシリィに攻撃を加え、まともに食らったシリィの体が跳ね飛ばされる。
「姐さん!」
痛恨の一撃を貰った上での追撃は、命取りにすらなりかねない。飛ばされたシリィを追う使い魔に、エドは文字通り矢継ぎ早に三本の矢を連射した。かなりの距離が離れているはずだが、エドの弓は使い魔を正確に貫いて、その体を地面に叩き落とす。やろうと思えば反撃を仕掛けられたはずであるが、シリィは体勢を立て直すと、無理なく敵から距離を取った。
フェイスの回復魔法が入り、シリィの傷を回復させる。立ち上がった魔物にヒオリの電撃が落とされて、その雷は一部が直角に軌道を変える。ベルドの剣に吸い込まれた稲妻は、彼自身の魔力も上乗せして、必殺足りうる一撃と化した。
「でえぇりゃあぁ!」
ヒオリとベルドの連撃は、鏡の使い魔を戦闘不能寸前にまで追い込んだ。そこへシリィが爆発呪文を解き放ち、二体目の使い魔を粉砕する。
鏡面少女が、凍える吹雪を吐き出した。フェイスが対抗策として魔法を発動させるものの、わずかに遅い。少女は即座に距離を詰め、ヒオリの首筋をナイフで掻き切ろうとする。が、攻撃を察したベルドが吹雪のダメージを押し殺してヒオリを庇った。
「っづあ!」
振るわれたナイフを、ベルドは剣で受け止める。少女は回し蹴りを放つが、追撃を予想していたベルドに隙はない。ベルドは左足を軸にして体を右方向へと回転させ、回転途中で左足を折り曲げて左膝のみの片膝を突いた体制になる。相手の蹴りが姿勢を低くした自分の髪の毛を掠めていく感触に口元を歪め、ベルドはそのまま右側の足で水面蹴りを食らわせた。続けざまにエドが跳び蹴りを放ち、吹き飛んだところにヒオリが術式を組み立てる。
「やめろヒオリ、今のあいつに魔法を撃っても――」
「――うりゃああぁぁぁっ!!」
あまり――というか、あまりにも――淑女らしからぬ声と共に、ヒオリは魔力を解き放った。次の瞬間、鏡が割れるような高い音がして、少女の顔が驚愕に染まる。それを見て、シリィが改めてその威力に舌を巻いた。
「すまないね。そのチャンス、貰うよ!」
ヒオリの作ったチャンスを生かし、シリィは魔法を解き放つ。ヒオリは術式の定義を応用し、“少女”ではなく“少女が作った魔法の鏡”を対象としたのだ。ゆえに“少女にかけられた魔法を反射する”という定義で組み立てられた魔法の鏡は、反射されることなく打ち砕かれた。
と、言葉にすれば簡単だが、このことを咄嗟に思いつき、かつそれを実行できる魔術師が果たして何人いるだろうか。戦闘における機転と勘はもちろんのこと、無数の修羅場をくぐった中で鍛え上げられた能力であった。
シリィの魔法が、少女が壁を再形成する前にその体に直撃する。燃え上がった少女の体に、エドが引き絞った一撃を放った。フェイスがアドルを回復させ、使い魔の攻撃をアドルは素早く回避する。攻撃の失敗を悟るや否や、使い魔はその先のフェイスに狙いを変更。使い魔の繰り出す一撃を、フェイスは槍で打ち払った。相手の体勢を崩したフェイスは間髪入れずに反撃に転じ、槍を回転させて後方の石突を叩き込む。当てた反動を利用して、流れるような動きで体ごと回転させながら、フェイスは遠心力を刃先のすぐ下、太刀打ちの部分に存分に乗せる。唸りを上げる銀の風が、使い魔を側面から殴り飛ばした。
常人であれば、どちらか片方を食らっただけでも戦闘不能に陥るほどの二連撃。食らってなお、使い魔はまだ倒れなかったが、走ってきた勢いを十分に乗せたアドルの強烈な跳び斬りが、その体を真っ二つに斬り裂いた。
これで、使い魔は全滅させた。後は鏡の少女のみだが、いつ使い魔を再召喚してもおかしくはなく、速攻で決めねば押し切られる。数少ない文献に記された一文に違わない強さを、鏡の魔物は持っていた。
ヒオリの術式とベルドの追撃が、鏡面少女を狙って疾る。対する少女は光の壁を再形成し、ヒオリの術式を跳ね返した。が、別方向から飛んできていたシリィの魔法がそれに激突、相殺こそしきれなかったが、余った威力ではヒオリを捕らえることは叶わない。一段階下の術式を素早く組み立て、ヒオリは跳ね返された自分の術式を撃墜した。
少女が右足で地面を踏みつけ、発された衝撃が地を這ってベルドたちに襲い掛かる。ぐらついた彼らに少女は再び吹雪を吐き出し、フェイスの回復魔法が対抗するように全員を癒した。左から迫る少女のナイフを、アドルは剣で受け止める。少女はアドルの剣を支点にして、前回りのように彼の頭上を取ろうとした。振り下ろされる少女の踵に、アドルは即座にツバメ返しを叩き込む。
剣と踵が激突し、無茶な力をかけられた剣が悲鳴を上げる。一瞬止まった少女の体に、エドがスローイングナイフを投擲した。片膝をついて着地した少女に、ヒオリが再び術式を放つ。狙いは少女本人ではなく、鏡のように魔法を跳ね返す壁でもなく、少女の着地した公園の地面。
先端を丸めた無形の槍が、公園の土を巻き上げる。そこへエドが弓矢を連射し、ベルドとアドルが勝負に出た。
「行っくぜえぇ!」
視界を土砂に潰されて、横に転がって飛び出した少女に、ベルドが素早く突っ込んでいく。敵を下から掬い上げるように宙へと浮かせ、自らも空中へと跳躍して一回転。体重全てを乗せた唐竹割りで、少女を地上に叩き落とした。仰向けに撃墜された少女の体に、ヒオリとシリィの篭手と杖が投げつけられ――
「アドル!」
「分かってる――行くよ!」
――アドルの十分に力の乗った溜め斬りが、少女を真っ二つに両断した。
「く……ふ……」
必殺の溜め斬りを食らわせたアドルは、腹部で上半身と下半身を泣き別れさせた少女の声に、振り抜いた体制から剣を戻した。ペリルの姿をした少女は、右腕で自分の目を覆うと、力の抜けた声を漏らす。
「あーあ……やられちゃったか……」
「いや、強かったよ。あんたのことは本でしか見たことなかったけど……俺と一騎打ちをやっていたら、まず間違いなく負けてただろうな」
ベルドの言葉に、アドルは確かにと頷いた。この魔物が持っていた強さは、六人がかりでやっと倒せたほどだった。“エルビウム夫妻”と“勇者のための四重唱”どちらが欠けても、勝つことは非常に難しかったに違いない。
下がっていたペリルが決着を察し、少女の近くまで歩いてくる。エドが危ないから下がれと指示して、ペリルは少し距離を取った。
「あの……ペリル、さん」
「なにかしら?」
大真面目な場で自分の名前にさん付けするなど普通は考えられないが、確かにこの少女のことをどう呼んでいいかも分からない。少女もそれが分かるのか、普通にペリルに言葉を返した。ペリルは少しためらいながら、少女に言葉を投げかける。
「その……この場で、いいです。あの子に、謝ってもらえませんか」
「あの子?」
「この前殺した、私の友達です。確かに気が強くて、恋愛に関しては敵でしたけど……殺す必要なんか、なかったはずです」
「……ふん」
対する少女は、どこか可笑しそうに笑みを漏らした。
「先に心配するところは、そこなわけ? 普通は自分の鏡に映った姿が返されるかどうか、気にならない?」
「……私が、質問しているんです。答えて、くださいませんか」
声の震えは隠せていないが、それでもこの強大な魔物に退かないことは、賞賛してもいいだろう。少女も同感だったのか、少しだけ笑うと、首だけを動かして頭を下げる。
「まあいいわ。そんな貴方に敬意を表して、悪いことしたとは言っておくわよ」
「……それで、いいです」
元々思考回路が違う相手に、心からの懺悔など無駄である。それで妥協し、ペリルは刃を引っ込めた。続いてニーロも、自分の使用人を殺したことへの謝罪を要求するものの、それに関しては少女は冷たい笑みを返す。
「してくれると判断したからなのか、それとも単なる順番なのか……どっちにしろ、ペリルの後からだと、いまいち心意気ってのが見えないわね」
「…………っ」
ニーロは何かを返そうとするが、しかし言葉が出ないらしい。笑みを漏らす少女の下半身が、公園の土と同化するように崩れ去り、夜の闇へと消えていく。ベルドが片手を腰に当てて、魔物に賞賛の言葉を送った。
「ま、いい勝負だったとは言っておくよ。いろんな意味で、満足だった」
「ふふ、そう。ま、私も同感ね」
一時的な擬態であるとはいえ、人型をして知性を持った魔物が相手だと、こうまで感傷が沸くのは何故だろうか。そんなことを思いつつ、アドルたちは消えていく少女を見届ける。
「ここまで、かぁ。あーあ……結構……楽し……かったのに……なぁ……」
最後にもう一度笑みを漏らし――鏡面少女は、完全に闇へと消え去った。この場から殺気が消えていき、戦闘の終了を物語る。
フェイスが手鏡を取り出して、ペリルの姿を映してみた。そこにあるのは、ごくごく普通に鏡に映ったペリルの姿。そんな当たり前の結果が、戻った平和を告げていた。
「ぁんだ、これ?」
アドルが紙を手渡すと、ベルドは不審そうな顔をした。横のヒオリも紙を受け取り、書かれた文字を読み上げる。
「招待状?」
「そう。ニーロとペリルの結婚式のね」
「はーん……」
紙を見ながら、ベルドは特に興味のなさそうな声を出す。予想できた反応に、アドルは本題を切り出した。
「ニーロとペリルが、是非君たちにも出て欲しいって。式は十日後みたいだけど、それまでの滞在費は出すってさ」
「なるほどねぇ。お前らも出るの?」
「そりゃ、招待されたからね。出席の返事はしておいたよ」
それに、あれからフェイスが出てこないんだ。笑みを苦笑に変えて言うと、ベルドも察したのか苦笑を返す。
「なんつーか、ご愁傷様。また一曲作ってるんだな」
「ああなったフェイスは、当分部屋から出てこないしね」
その言葉だけで、百万言を費やすよりも雄弁に分かる。仮に欠席の返事でもすれば、それはそれはフェイスはゴネることだろう。ベルドは隣に座るヒオリに、招待状を見せてみた。
「出てみるか?」
「うん。もうちょっと、ゆっくり過ごしたい」
十日もあるから、それまでは、ということか。出立の目処は一応あったが、ベルドは予定を変更する。
「んじゃ、明日からの行動は決まりだ。三日くらい近場の仕事を請けて、七日はのんびり過ごすとしよう」
「仕事? 今回の仕事で、大分大金を得たじゃないか。滞在費も出るのに、なんでわざわざ仕事をするんだ」
「祝儀代稼いで来るんだよ。結婚式の祝儀って、結構馬鹿になんねえ金額なんだろ?」
「アンタね……」
理屈は分かるが、少しは隠せよ。シリィがこめかみを押さえて突っ込むが、ベルドは意にも介さない様子でギルドの掲示板へと足を向ける。ヒオリも一緒に掲示板を見上げ、しばらくしてから一枚の紙を剥がし取った。そのままカウンターへと足を向け、事務員と受付の手続きをする。今はシリィも、仕事はせずにこの場にいた。
「こいつ請けるわ。明日からの受注で、手続き頼む」
「かしこまりました」
手続きを終えて、ベルドはアドルたちの傍へと帰ってきた。依頼状をひらひらさせて、ベルドはアドルに行動を告げる。
「んじゃ、ちょっくら買い物行ってくるわ。昼までには帰ってくるから、そしたら一緒に飯でも食おう」
「昼? どうせなら、二人でデートでもしてきたらどうだ?」
エドがそんな言葉をかけるが、ベルドはいいやと首を振る。
「昨日まで丸二日外でどたばたやってたんだ。今日は昼までには帰ってきて、午後はヒオリと部屋でのんびり過ごすとするよ」
「そうか。防音の部屋は空いてたから――」
「いいっての! つーか余計に疲れることしてどーするよ!?」
からかうようなエドの言葉に、ベルドが思い切り怒声を上げて。
アドルは小さく、笑みを漏らした。