姫と執事と吸血鬼と 1
「あぁ、待っていたのよ」
花も恥じらう笑みで、姫は彼を迎え入れた。
この家の執事となるべく頑張っている同い年の青年は、彼女の笑みを受けて顔を綻ばせる。彼女が自分にだけ向けるこの微笑みは、どんな時でも彼の心を癒す。世界中が華やかに彩られる。
それは、昔から変わらない。
「大切なお話。お父様が皆に発表する前に、あなたにだけはわたしの口から言いたかったの」
「なんだい?」
二人きりの時には、主従の関係を忘れろと、言われている。彼は、色とりどりのクッションに囲まれている少女の横へ、腰を下ろした。
「どんな重大発表だい?」
優しい彼の声に、はにかむような笑みを浮かべて、大きなクッションに顔をうずめた。クッションの間から、くぐもった声が彼の耳に届く。
「結婚することになったの。相手は――」
世界の音と、色が、消えた。
街の中にあるのに、街の人間は立ち入らない場所がある。
南の門から領主の城まで真っすぐ突き抜ける大通り。その門のすぐそばにある立派な建物だ。
大小の差はあるが、国中の城下町の同じ場所にあるそれは、『ギルド』または『冒険座』と呼ばれている。冒険者と呼ばれる、荒事専門のなんでも屋達の組合支所だ。国が出来てから間もなくして設置されたのだから、歴史は長い。
腕に覚えのある者達が集まるそこは、平和に平凡に暮らす人々にとって、まず、用のない場所だった。彼らがそこを必要とするのは、平和な生活を脅かす暴力が現れた時だ。
その暴力の大半は『魔物』と呼ばれる、世界の理――『和』から外れた存在によるモノだ。
そもそもギルドは、魔物を統べる『魔王』を倒すために集められた戦士たちの集まりが始まりである。神に等しい魔王と言う存在を倒すというのは、無謀と言っても良いだろう。それを承知で、あえて危険に乗り込む彼らは、自らを自嘲と誇りを持って、危険を冒すもの――冒険者と名乗った。残念なことに彼らは志半ばで倒れてしまったが、その名称と志は広く、長く伝えられ、数百年経った今でも冒険者の中には本気で魔王を倒すことを目的としている者も少なくない。また、魔王を倒すと言う志を持っていなくとも、少なくともギルドに属する者たちは、対魔物の専門家だった。
シリルは善良で平凡な民である。
中肉中背といえる体型に、この地アークスで最も多い茶色の髪を持っている。瞳の青に混じり気は無いが、ここは『蒼国』とも呼ばれるカルーラ聖王国。青い髪も青い瞳も、そのどちらかを持つものであれば、ごまんといるから、一般的といってもいいだろう。
そんな平凡で善良な民であり、それを誇りにすら思っているシリルは、不本意にも自分と正反対に位置する者たちのいるギルドへ足を踏み入れなくてはいけなかった。
しかも、今日で三度目だ。
事態が事態とは言え、喜ぶ気にもなれない。
シリルは道の反対側で開けっぴろげているギルドの門と相対し、大きくひとつ、溜息をついた。
「あれ、シリルさん……だっけ?」
南門から入ってきた少女が、溜息をついていたシリルに声をかける。あわてて顔を上げたシリルは、少女とその背後にいる者たちを見て、顔をしかめた。
15,6歳くらいであろう少女がいる。澄んだ空のような髪を短くした、小柄な可愛らしい少女だ。パッチリとした眼には夜空の色が知的に光り、見た目どおりの単なる少女でないことを物語っている。その後ろには、彼女よりも2~3歳年上の少年一人と、少女が二人いた。彼女らは皆、薄汚れた格好をしている。親しいわけでも、親しくなりたいわけでもないが、シリルは彼女たちを知っていた。彼の目の前にある店で見た。世も末と言うべきであろう。自分とそう歳の変わらない彼女らは、荒事専門の冒険者なのだ。
「あぁ。ノルも駄目だったんだっけ……」
彼女は呟いてから、顔を上げた。
「まぁ、入りなよ」
まるで友人を自分の家に誘うような気楽さで、彼女はシリルを促す。実際、家を持たない冒険者は多く、そんな者たちにとって、ギルドは家のようなものだ。ただ、彼女たちがそうなのかは知らない。シリルはここに来たのは三度目だし、彼女と言葉を交わしたのは初めてだからだ。
そう、両者は顔見知りでは合ったが、実際に対面して言葉を交わしたことは無かった。
ギルドへ足を踏み入れる一般市民は珍しい。しかも、短い期間に同じ依頼で二度ともなると、不本意ながらかなり注目される。対して彼女たちは、その他大勢の冒険者の中で目立つ存在だった。ひとつはその若さ。そして、もうひとつは……
「今日は歌っていないんだね。本業かい?」
少女に促されてギルドへ足を踏み入れながら、頭ひとつ小さい少女へ問いかける。彼女は、驚いたように深い青色の瞳を大きく開いて、シリルを見た。
「私たちの歌、聴いていてくれたんだ……」
あまりに意外だったのか、彼女はぽかんとした表情でシリルを見上げる。その顔が、みるみる喜びに染まっていくのが、手に取るようにわかった。
「思わず聞き惚れたよ。好きな曲なんだ……それをこんなにきれいに歌ってくれて、嬉しかった」
それは、2度目の依頼の時だった。冒険者たちがたむろしている酒場の奥から、きれいな四重唱が聞こえてきたのだ。それを歌っていたのが、この目の前にいる冒険者達だった。シリルはその職業柄、質のいい音楽を漏れ聞く機会がある。だから、普通の人より耳は肥えていると思っている。そんなシリルでも感動できる美しさの歌だった。
ギルドは嫌だったが、あの歌を聴くために足を踏み入れるのは良いかな、と思うくらいには、気に入っていた。だから、シリルは、彼女たちを覚えていたのだ。
「よしっ!」
少女は大きくなずいて、シリルの手をとる。
「おいっ!」
後ろにいた仲間の少年が慌てた様子で声をかけるが、彼女は無視してカウンターへとシリルを引っ張った。予想外に、力が強い。
シリルを引き摺るようにしてカウンターまでたどり着いた少女は、奥に向かって声をかけた。
「ルー!」
「おう、アドル。終わったか?」
ルーと呼ばれて振り向いたのは、ギルドの事務員ルーディだ。彼は、町の人々から依頼を受け、仕事を冒険者へ割り振る。シリルも毎度、彼に世話になっていた。
「単なる魔物退治なんて、面白くも無い仕事だ。報告は、シリィが」
口早にそう言って、アドルはチラリと視線をシリルへと向ける。
「で……」
「あぁ、シリル」
ルーディは、アドルに引っ張られてきたシリルの姿を認め、心底申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「すまなかったね。ラードルフ様のところへ、直接詫びを入れにいかなくてはいけない」
「いや、それは必要ありません」
シリルは首を横に振った。
「彼らはいつも、必要最低限の仕事はしてくれています。最悪の事態にはなっていない。だから、旦那様も、もう一度お願いしようと私をここに寄越したのです」
「それは、ありがたいな……しかし、これ以上の失敗は、こちらの沽券に関わる」
彼らは2度、シリルが持ち込んだ依頼に対して、失敗はしていないが、完遂もしていなかった。なので、今回も同じ内容の依頼を携えて、シリルはここに来た。ルーディは分かっているから、敢えて聞くことはしない。
「さて、誰に頼むか……中堅どころのノルでも駄目だとなると」
ルーディは、大きなファイルを取り出す。ここに、ギルドに登録している冒険者グループが記されているのだ。そこへ、カウンターへ乗り出すようにして手を上げた者がいる。シリルをつれてきた、アドルと呼ばれた少女だ。
「ルー、私が行く」
「「はぁ!?」」
依頼者と取次役の声が重なる。
当然だろう。
前回派遣された冒険者達は、エースとまではいかなくても、それなりの経験をつんだ者だった。そんな彼らが失敗した依頼は、シリルよりも若い彼らにとって荷が勝ちすぎる。
「お前らが行くほどの事じゃないぞ。たった一体の魔物退治だ」
しかし、ルーディの反応は彼とは全く逆のものだった。
「お前たちじゃ、役不足だ」
シリルは驚く。この、自分よりも年下かもしれない彼らが、二組の冒険者たちが完遂しなかった依頼を『役不足』と言うくらい凄腕だと言うのか。
申し訳ないが、そうは見えない。大道芸人としては一流だとは思うが……
「四度目は無いだろう?」
アドルはにこりと微笑んで首をかしげた。う、とルーディは言葉に詰まる。視線が、彼女の背後を彷徨った。シリルが振り返れば、アドルの仲間達は、三者三様の表情を浮かべている。諦めたような顔。何かを期待するような顔。どうでも良いとばかりに様子を見ている顔。
ルーディは溜息をつく。
「……わかった」
「私たちを使うのに躊躇するようなものでも無かろうに」
「まぁ、そうなんだけどな」
役不足? 十分じゃないか。
依頼するほうから見れば、いい加減、きちんと解決をしてくれる熟練の冒険者にお越し願いたいところなのだから。
「話を聞いて、やっぱりやめた、は無しだぞ?」
「面白くない話でも、我慢するよ」
さらりと、困っている人の神経を逆なでする様な事を言ったアドルは、ちらりと視線をシリルのほうへと向ける。
「彼は、私たちの歌を褒めてくれたからね」
その途端、ルーディの眉が開いた。
「そりゃ、安心だ」
シリル。あんた、いい奴を味方につけたな。ルーディは嬉しそうに肩を叩く。
イマイチ話の展開についていけていないが、自分の行動が気分屋な凄腕冒険者を動かしたらしいことは、分かった。
……彼らは全くそう見えなくて、大いに不安ではあるが。
「とりあえず、自己紹介だね」
とりあえず話をしろと言って勧められた席にシリルが着くと、アドルがにこりと微笑んだ。
「私はアドル。この銀髪のがエド。あっちの金色がフェイスで赤いのがシリィ」
「……シリルです」
なんともアバウトな自己紹介だ。しかし、それでシリルは彼らの顔と名前を一致することが出来た。とにかく派手なのだ、彼らの髪の色は。髪の色は無数にあるが、青・赤・金・銀とはきれいに揃い過ぎている。緑がないことが惜しいくらいである。
「ここオルシスの領主、ダッグ家に仕えている。依頼は、ダッグ家の姫を守ること。可能であれば、脅威の原因を排除すること」
「姫が、危険に晒されているのですか?」
金色というにはくすんだ色の髪をした少女が、初めて口を開いた。ふわりとした、高くて綺麗な声だ。シリルは頷く。
「吸血鬼が、姫を狙っている」
「吸血鬼……」
厄介なものに狙われたね、と赤毛のシリィが低く呟いた。全くそのとおりだと、シリルも思う。
吸血鬼。
文字通り、血を吸う鬼――魔物だ。人型の魔物で、主食として血を求める。吸血した人間を吸血鬼に変えるとか、吸血鬼の血を与えた人間を吸血鬼にするとか言う説がある。満月の晩に処女を攫い、その生き血を飲むことによって不老不死を保っていると言う話もあった。
「いつ、どこで見初められたのか……ある晩、突然吸血鬼が現れ、彼女を嫁にすると言って来た。それから、満月の度に、姫を攫おうと奴は現れる」
姫を守るために吸血鬼と戦い、家来の一人が重傷を負ってから、領主ラードルフは冒険者を使うことにした。それから、二度の満月を迎え、そのどちらでも、姫を守ることは出来たが、吸血鬼を退治するには至らなかった。
「満月とは、月を問わず?」
シリルは頷く。それぞれ違う大きさと周期の4つの月のうち、最初の紅月、次の金月、そして紅月碧月の双満月に、それぞれ奴は現れた。次の満月は最も周期の遅い蒼月である。
その蒼月は、人の目から見れば、すでに丸に見えるほど膨らんでいた。
「わかった」
アドルは頷く。
「次の満月には、吸血鬼を倒そう」
そう言って、席を立った。
オルシスの街は南から北へとゆっくり上っている。オルシス領主ダッグ家の城は、南門から大通りをまっすぐ北上した先、街で最も高い場所に位置していた。そのため、どこからでもその堅牢な姿を見ることが出来る。シリルは、歳若い冒険者を連れて、その街を見下ろす城へと向かっていた。
「シリルさんって、何年あそこで働いているんです?」
黙々と歩いていたら、アドルがひょいと横から顔を出した。
「え?」
「若いけど、結構長そうですよね」
「なんで、わかる?」
聞いたら、だってねぇ、とアドルは仲間を振り返る。フェイスが大きく頷いた。癖のない長い髪が、さらりと揺れる。
「姫様の一大事に、下っ端の使い走りが寄越されるわけがありません」
フェイスの力強い断言に、アドルは顎に手を当てて、じゃあと呟く。
「……乳兄弟?」
「っ!?」
上目使いに聞いてくるアドルに、シリルは驚いて言葉を失った。
なぜ、分かる?
領主やその一人娘の名前はともかく、使用人の名前を把握しているものなど、領民にもいないのに。
驚くシリルの姿に、二人の少女が当たった当たったと喜んで手を叩き合って喜び始めた。
つまり、なんだ──推測だったということか。
「おい、アドル」
ため息交じりで、このパーティ唯一の男性であるエドが仲間の名前を呼んだ。
「無駄に依頼人を驚かして楽しむの癖は止めろ」
「心外だな」
アドルはぷくりと膨れてエドを睨む。その表情には、妙な愛嬌があった。
「単なるコミュニケーションじゃないか。初対面のならず者に緊張しているシリルさんの警戒心を、少しでも和らげようと」
「それが警戒心を煽っているとの自覚は?」
アドルは思いっきりかわいらしい笑顔で小首を傾げる。エドが、盛大にため息をついた。そして、シリルの肩をぽんと叩く。
「すまんな。無駄に人を驚かすことが好きだが、害のない悪戯しかしないから勘弁してくれ」
自分よりも疲れた表情をしているエドの言葉に、シリルは思わず頷いた。すぐ横から、そんなことはない、心外だとアドルが抗議しているが、エドはきれいに聞き流している。その様子に、シリルは思わず笑みを漏らした。
「仲がいいんだね」
「……俺には理解できないんだが、よくこの手のやり取りをしていると言われる」
エドが不本意だとばかりに首を左右に振った。
「気安いんだよ。見ていて、微笑ましい」
「二人は幼馴染ですから!」
横から飛び出したのは、フェイスだ。
「幼馴染?」
そうなんです。と他人の事なのに、酷く嬉しそうに彼女は頷いた。隣でエドとアドルが同時に不本意ながら、と呟く。同時に同じ事を呟いたこと自体が不本意だったのだろう、二人は互いを見合わせて、眉を顰めた。こういう姿に仲の良い者同士の気安さを感じるのだ。
「家族の様に、一緒に過ごしたそうです」
「家族の……」
目を輝かしながら、フェイスはシリルを見上げた。
「シリルさんも、姫様とそうなのですか?」
「えっ!?」
いきなり自分の事に話を振られて、シリルはうろたえる。「そう」と言うのは、幼馴染と言うことか? 家族の様だと言うことか? それとも、気安いということか?
少し考えてから、シリルは口を開いた。
「確かに、姫とは生まれた時から一緒だね」
乳兄弟なのだから、当然である。シリルと半年後に生まれた姫は、生まれてから今まで、殆どずっと一緒に過ごしている。
「だけど、彼女はあくまで姫で、僕は、ダッグ家に仕える使用人だから」
だから、あの二人とは違う。
そう言ったら、フェイスがそうなんですか、と呟いた。
少し語尾が上がって疑問形に聞こえたのは、気のせいだろう。
「巫山戯るな!!」
シリルの連れてきた冒険者たちを見た瞬間、オルシス領主ラードルフは城を揺るがすほどの怒鳴り声をあげた。
「ギルドは私を馬鹿にしておるのか? 二度も失敗しておるのだぞ。その挙句に派遣して来たのが、この青二才か!?」
ラードルフが怒る理由も分かる。実は、何となく成り行きで連れて来てしまったが、シリルを出迎えた執事長の表情を見たとき、あぁ、これは失敗したかな、とシリルも思ったのだ。物事を見た目で判断する事をしない、冷静で老練な執事長すら、一瞬だが胡散臭そうなモノを見る目になったから。追い込まれているラードルフが、まだ幼いと言っても良い冒険者たちを見て、激昂しても無理は無い。
「お初にお目にかかります」
しかし、若き冒険者は領主の怒声に動じること無く、優雅に頭を下げた。そして彼女は、ラードルフの怒りを一瞬にして鎮める一言を放った。
「ギルドより派遣されましたパーティ『勇者のための四重唱』です」
「なに?」
ラードルフは目を眇めた。シリルは、嘘だろう? と言う言葉を必死になって飲み込む。
「あの、高名な冒険者パーティの? この、若造が?」
冒険者たちは一緒に行動する仲間を持つ。そのグループをパーティと呼び、彼らはそれに名前をつけることが多い。『勇者のための四重唱』とは、つい最近、急速に、カルーラ聖王国内で知らぬ者はいない、と言うほど有名になったパーティの名前であった。
「勇者が立つとき、そこにあり。と言われている『勇者のための四重唱』が、お主ら?」
「なぜかそう言う事になっている『勇者のための四重唱』です」
それは決して自分たちの望んでいることではない、と言わんばかりの言い方だが、アドルは肯定した。
「私たちは、ただ、歌うべき勇者の物語を探しているだけです」
アドルの呟きに、先ほどまで激昂していたラードルフがくつくつと笑い出した。
「歌の勇者を求めるあまり、勇者を仕立て上げてしまうとも、どこかで聞いたな」
「……まぁ、そういう事もあったかもしれません」
あまり指摘されたくない事実なのか、アドルの目が泳いでいる。そんな彼女の深い青の瞳を、ラードルフは見据えた。
「にしても、若すぎるな」
「私たちの名前が世に出たのだって、そう昔じゃないですよ。私がこの仕事を始めたのは2年前です」
「私がその名を聞いたのは1年ほど前だ。確かに矛盾はないな……」
しかし、若い。とラードルフは繰り返す。
「幾つだった?」
「……14」
それは若いと言うより、幼い。それが2年前と言えば、今は16歳。それでも十分に冒険者としては若過ぎる。
「嫌な世の中だな。幼い子供が冒険者にならなければ生きていけない世の中とは……」
ラードルフは低い声で呟いて、ゆっくりと席を立った。やわらかな絨毯を踏みしめて、彼は背後にあった窓へと向かう。窓から差し込む光が、彼の憂いを表現するかのように影を落とす。
「ギルドから正式に派遣された冒険者が、偽りを言うとは思えん。信頼しよう」
この城の主は窓の外へと視線を向ける。中庭をはさんで向こう側にある建物、そこで彼の大切な娘が、小さな体をふるわせている筈だ。
「吸血鬼を退治してのけたら、歌にして構わん。そうだな、主人公に──」
領主は傍らで控える若き使用人へと視線を移す。ラードルフと視線があったシリルは目を見開いた。その反応が面白かったのか、ラードルフは口の端を上げて、彼を指差した。
「このシリルあたりを祭り上げてくれれば良い。姫を助ける身分違いの幼馴染の物語は、女性達に人気であろう」
「ラードルフ様!」
「流石。よく市井の事をご存知だ」
「娘が──イレーネがこの手の物語を好きでな。もし良かったら、あの子の慰みに歌ってくれないか?」
仕事の範囲外の事で申し訳ないが。そうラードルフが言う前に、彼らは喜色を浮かべて立ち上がった。
「喜んで!」
恭しく礼をする。舞台の前の観客に、演奏前にする演奏者のように。
彼らが冒険者である本当の目的が歌であるという、冗談の様な話は、本当なのかもしれない。
冒険者は、姫の住む棟と同じ所にある姫の客間に案内される。彼らの世話は、姫の乳兄弟のシリルが主に行う。それは、最初の冒険者を迎えたときから変わらない。
今回もシリルは冒険者を連れ、彼らが泊まる客間へと案内した。姫の寝室の隣と真下だ。そして、彼らの待機室は、姫の居室の隣にある使用人控え室に用意される。ここからなら、直接姫の部屋へ出入りできるからだ。
シリルは最初に、アドルたちを下の階の客間へと案内した。これは、男性用──エド用の寝室だ。
「申し訳ないが、男性を姫と同じ階に泊まらせる訳にはいかないんだ」
「まぁ、当然だよね」
アドルが頷いた。そして彼女は当然のようにエドと一緒にその部屋へと入る。
「え!?」
「……何か?」
シリルの叫びに、アドルが可愛らしい笑みを浮かべて振り返った。完璧な笑みなのに、なぜか背筋に悪寒が走る。
「えっと、この部屋は男性用で……」
「だから、何か問題でも?」
笑みを浮かべたまま、アドルは一歩、シリルへ向かって進んだ。反射的にシリルは一歩後退る。
「あ、えっと……そういう仲だったのなら、すまな──っわぁ!!!」
言っている途中で、アドルの腕が、シリルの目の前に迫った。彼は驚いて声を上げ瞳を閉じる。ドン! と、力いっぱい何かを殴った音が、彼の耳元で響いた。
気がついたら、シリルは廊下の真っ赤な絨毯の上にへたり込んでいた。腰が抜けたのだ。おそるおそる目を開ければ、シリルの頭上に、壁を殴った姿勢のまま微笑んでいるアドルと目が合った。
「ちょっとアドル。曲がり何も依頼者だよ」
「気持ち悪い事を言う方が悪い。それに、依頼者はラードルフ氏だ」
苦笑まじりのシリィの言葉に、壁を殴った手を振りながらアドルは憤然と答えた。既に、あの笑顔はない。
その表情を見て、シリルは悟る。それは冗談でも言ってはいけないことだったのだ。もしかしたら、彼女はパーティ間での色恋沙汰は、冗談でもタブーとしているのかもしれない。パーティの連携を大切にするために、そう言うルールを決めているパーティもいるという話を、前回来た冒険者から姫が聞いていたのを、思い出す。
しかし、アドルの言葉はその予想の遥か斜め上をいっていた。
「私のどこが女に見える?」
赤い絨毯の廊下に座り込み、シリルはぽかんと間抜けに口を開いた。
「男……なのか?」
「だから、この私のどこが、女に見えるんだ?」
ようやく口を出た疑問に、アドルは同じ問いを重ねる。男以外に見えるわけがなかろうと、言外に言いながら。
「…………えっと」
憤慨を露にシリルを見下ろすアドルの言葉に、シリルだけではなく、彼女──いや、彼の仲間たちまでもが絶句した。
彼らが言いたいことは、シリルと同じだろう。
だが、それを口にする勇者は、流石にいなかった。