少年剣士と貴族の坊ちゃん 7
果てしなく広い青空だ。
雲一つない空と、木々の緑と灰褐色の岩肌が、湖に映える。湖と隣り合う断崖絶壁の山だ。
山が北と東から迫ってきていた。真っ平らだった道が、少しずつ上り始める。湖岸から伸びていた砂浜はあっと言う間に姿を消し、湖と大地の落差が激しくなってきている。
目的地であるシャフロンは、目前に迫る東の山を越えたところにあった。
山を越えるには、船か、険しい峠を越える必要があった。
船を使うにも、峠を越えるにも必要になるのが、山の際にあるコッコリオの街だった。それ故に、この街は、街道でも屈指の規模の宿場街になっていた。
ただし現在は、山越えに前者の方法を採ることはできない。山を越えた向こう側に、水軍の遡上を警戒しているフラビスの騎士団が控えているからだ。
戦場から、山と湖と言う天然の防護壁で守られているコッコリオだが、雰囲気は通常のものではない。物見遊山な旅人の姿はおらず、街の中を闊歩するのは、目をギラギラとさせた戦士たちだ。
コッコリオは補給拠点となっていた。個々に物資を集め、補給部隊が峠を越えて物資を運ぶ。
峠のこちら側にあるこの街も、シャフロンの戦場と無縁でいられないのだ。
「そう言えばさ」
遠くにコッコリオの街が見えてきた。道の左右には、畑が広がっている。街の近くに畑や森が多いのは、カルーラの特徴だ。
「アドルフィーネって、何だ?」
「……私の名前だけど?」
分かり切った事を聞く理由が分からない、と言う表情で、アドルが答える。
「しらばっくれるな」
エドはぴしゃりと言う。
「王女と同じ名前ってどういうことです?」
彼に続いて、フェイスが尋ねた。
「偶然じゃないよね……あんたらは、従姉弟同士だ」
シリィも続く。これは、ずっと三人で話していた事だ。チャドがあの日言った言葉。それは、誰も知らなかった事だ。
そして、それは重大な事だった。
名前には重要な意味がある。
名前は、最初に与えられる祝いの魔法だからだ。
名前と言う『祝』を与えられる事で、人は個として定義される。定義される事で、世界から降りかかるあらゆる災厄から守られるのだ。
だから、親は、生まれてきた子供へ、沢山の祝福を込めた名前を送る。尊敬する英雄の名前や、それに近いもの。ただ一つの名前を捻りだすもの。美しい意味や響きを持つものなどだ。
他の二人は知らなかったが、エドはアドルの名前を知っていた。それが、女名である事も。そして、その理由は、体が弱かったからだと聞いていた。死神や病魔に見つからないように、体が弱い子供にあえて逆の性別の名前をつけると言う事は、良くある話だ。現に、アドルは幼いころ、体が弱かった。うっすらと記憶にある彼の従姉も……
しかし、エドは彼女の名前を覚えていない。フィーネと呼ばれていた事を、どうにか思い出せただけだった。
だから、驚いた。
従姉弟同士で名前が同じだったと言う事。しかも相手は、王位継承権第一位の王女殿下だ。
偶然、と言う事はあるまい。
それは、何か重大な意図を持っていると考えられる。
チャドが去った後、三人の中で色々な憶測が飛び交った。しかし、答えが出る訳もない。
「デリケートな事柄すぎて、想像したくありません」
真っ先に降参したのは、珍しくフェイスだった。
「違うだろう」
シリィが、それを否定する。
「一番ありそうな可能性が、考えるのも恐ろしい事だからだ」
「シリィも?」
ああ、シリィは頷く。
「な、なんだよ? 心当たりでもあるのか?」
「……あると言えば」
「あります。でも」
フェイスとシリィが顔を見合わせる。豪快なシリィもが言葉を濁らせるとは、一体何なのだ、とエドは気になってしょうがない。
「あぁ……でも、エドに聞いてみた方が良いかもしれないね。幼馴染なんだろう?」
「一応、そうだな」
エドの答えに、今まであった自信はない。幼馴染でも、知らないことが山ほどある事を、再会してからの1年半間で、思い知らされてきた。
「なら、話します」
そう言って、二人はエドに、推測を語り始めた。
「――と言う事です。どう思いますか、エド?」
二人は、互いの予想を確認し合いながらエドに語った。彼女達の予想は、大体同じだったようだ。やはりそう思うのかと、何度も確認し合っていた。
「……辻褄は、合うな」
そして、その話はエドを納得させるのに足るものだった。
「しかし、ならアドルはここに居るんだ?」
「姫が健在だからかね」
「でも、アドルちゃんは、まだ『アドルフィーネ』です」
「なら、そういうことだろうよ……アタシ達の予想が正しければ」
三人は、たがいに顔を見合わせて、溜息を吐いた。
重大な何かを知ってしまう不安。仲間なのに、それを知らないと言う不安。そして、それ以上の好奇心。それらが、三人の中でせめぎ合っている。
ならば手っ取り早く聞いてしまおう。と言う結論に至ったのだ。
コッコリオ街を目の前にするまで話題に出せなかったのは、聞くのにそれだけの覚悟が必要だったからだ。
しかし。
「おっと、本物のセザール伯爵発見」
街の門扉で、アドルに向かって手を振る中年男性がいた。アドルはあからさまに助かった、と言った感じで、セザールに向かって手を振り返す。
「……逃げるね」
「ええ、逃げます」
フェイスとシリィが剣呑な視線でアドルを見た。アドルはそんな彼女たちを無視して、駆けだす。門の前で親しげに灰色がかった青色の髪の中年と、その隣に居た濃紺の髪の青年の前で立ち止まり、親しげに話し始めた。
「逃げたな」
エドは溜息をついた。
「無理だな。こいつは、聞くべき事じゃないんだ」
とりあえず保留にする、とエドはフェイス達に言う。
これは、簡単に答えてくれそうにもない。
そしてやはり、好奇心で聞いても良い事ではないのだ。
だから、アドルは混ぜっ返したりせず「答えない」と言う答えを提示したのだろう。
「しょうがない」
「……必要なら、いつか話してくれますよ」
フェイスとシリィも呆気なく諦めた。
ただ、アドルと自分たちの間に、今ある距離以上の距離を感じた気がする。
エドは少し寂しくなった。