姫と執事と吸血鬼と 3
城を出てすぐに、アドルはシリィと別れた。
彼女には、彼女だけが持つネットワークがある。そこから今回の収集すべき情報を得に行ったのだ。
アドルにも、彼だけが持つネットワークはある。が、今回はそれは必要なさそうだ。
彼は来た道を戻る。大通りには、行きよりも人の数が増えていた。夕方となり、仕事を切り上げて帰る者や、夕食の買い物をする者たちが大通りを行き来し始めたのだ。仕事が終わってこれから酒場で一杯と考えているであろう男達の、浮き浮きとした顔。子供の手を引き買い物へと向かう女性。ボールを持った子供たちは、それぞれの親に呼ばれて、名残惜しげに家へと帰る。
この領主の娘が一大事と言うのに、街の人々はアドルの好きな『平和な日常』を見せていた。領主が城の外へ問題を持ち出していないからだ。
アドルはのんびりと人々の様子を見ながら、しかし足早に大通りを南下する。通りにどんなに人が増えても、入り口が閑散としているギルドへと足を踏み入れた。
一瞬にして、『街の日常』が『冒険者の日常』に取って代わられる。
「お、お帰り」
まだ、街の外へ出ている冒険者たちが帰ってくるには早い。酒場仕立ての薄暗い店は閑散としていた。
「ノルは?」
「部屋だよ」
カウンターのルーディが答える。アドルは吹き抜けから見える二階の手すりの傷を眺めてから、ルーディにワインをボトル一本頼んだ。グラスは4つ。前回、領主の仕事を請けたノルベルトは4人パーティだ。アドルの分のグラスは無い。酒は美味しいと感じるが弱いので、仕事中は飲む訳にはいかなかった。
ノルベルト達の部屋は知っていた。彼らとはそこそこ仲が良いからだ。何度か部屋にお邪魔したこともある。
コンコン。
片手にグラスとワインボトルが乗った盆を持って、手の甲でリズミカルに扉を叩く。
「誰だ?」
太い声が誰何する。同時にぬっと磨かれた頭が扉から出てきた。
「お、アドル」
綺麗に頭を剃りあげた男が、人懐こい笑みを向けた。アドルは空いた手を掲げて、挨拶をする。
「こんにちは、ヨハン」
「入りな。そろそろ来るころだろうと思っていた」
禿頭の男が扉を大きく開く。男は空色の法衣を着ている。この国の僧侶なのだ。
「おう、アドル」
部屋の奥から低く太い大人の声がアドルを呼んだ。正面のベッドに、金髪の大男がどっかりと座っていた。彼がノルベルトである。彼は、くいくいとアドルを手招きする。アドルはお言葉に甘えて部屋へと入った。
「手土産は何だ?」
「申し訳ないが、下のワイン」
「ちぇ、なんだよー」
軽い声で不満を漏らしたのは、ノルベルトの右に、椅子の背にもたれて座っている細い男だ。ペッツと言う軽業師である。彼の反対側でにこにこと笑っている長髪の男がアヒム。細剣も振れなそうな優男なのに、凄腕の剣士である。人は見かけによらないと、自分の事を差し置いて、アドルは思う。
彼らがノルベルトのパーティメンバーである。人数は、アドルたちと同じ。冒険者パーティとしては、最小数だ。
「領主の、請けたんだってな?」
ヨハンに勧められた椅子に座って、アドルは頷いた。
「俺があの場に居たら、止めたんだがな」
「役不足?」
アドルは下で一緒にもらってきた栓抜きをワインのコルクへキュッと差し込む。
「いやいや」
ノルベルトは両手を振って否定する。アドルは立ち上がった。コルクが硬くて栓抜きが回らないのだ。
「厄介なんだよ。だから、俺たちはすぐに手を引いた」
「あぁ、それが不思議だったんだ」
立ち上がって力を込めたら、ようやく栓抜きが回り始めた。なんて硬いコルクなんだ。
「ノルが、仕事を完遂しないで手を引くなんて、余程の事だろうと」
ノルベルトたちは、それなりに腕があり、自分たちに誇りを持っている冒険者だ。彼らはその誇り故、自分から仕事を放り投げるなんて事は、まずしない。それなのに、1度魔物を追い払っただけで、この依頼から手を引いた。魔物を倒し、依頼を完遂する前に、だ。
「それだけ分かっていて、なんで請けたんだ……」
ノルベルトがあきれた顔をする。
「シリルは冒険者が嫌いだよね」
「それを知っているなら、更に、だ」
全く納得出来ない、という表情を彼らは浮かべのを横目で見ながら、アドルは最後だ、と力を入れた。ようやく、栓抜きが奥まで入る。てこの原理を利用して栓抜きを引っ張ると、ポン! と心地よい音がして、栓が抜けた。ツンとした酸味のある香りが、アドルの鼻をくすぐり、アドルは思わず眉をひそめた。手土産とするには申し訳ないが、あまり良いワインではない。
アドルは栓抜きからコルクを外し、テーブルに立てる。
「そのシリルが、私たちの歌を聴いてくれたんだ。そして、褒めてくれた」
「……あぁ」
納得した、と頷いて、ノルベルトはグラスを差し出す。アドルは一口に満たない量を注いで、にこりと微笑んだ。味を見ろ、と言うことだ。そう言われても、ノルベルトはテイスティングの作法など知らない。とりあえず、注がれたワインを飲んで、眉をひそめた。
「手を抜きやがって……」
酸味の強い、安物のワインだ。ギルドの酒場に置いてある一般的なものである。これが、アドルが自分で見繕ってきたワインなら、同じ値段でも、もう少しましなものを持ってきただろう。
アドルは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「急いでいたもので」
「いいさ。どうせ、いつも飲んでいる奴だ」
「終わったら、一緒に飲めば良い」
「成否関係なくおごれよ」
ノルベルトはそう言って、グラスを差し出す。アドルは頷いてから、優雅な仕草でワインを注いだ。深紅の液体が、透明なグラスの三分の一ほど注がれる。深い赤はグラスの先を見せないが、決して濁っているわけではない。色は、悪くない様だ。続けてアドルは、残りの3つのグラスにも優雅にワインを注ぐ。
「しかし、面白いくらい安易に請けたな」
「端から見れば馬鹿らしい理由かもしれないけどね、私たちにとっては大切なことだ」
冒険者と言う存在を快く思っていない人は、少なくない。当然だと思う。彼らは、一歩間違えればならず者の集団なのだから。
実際、人に対して危害を加える悪党もいる。冒険者の仕事には、一般市民に害を加えた冒険者を捕まえると言う、悲しく、情けない仕事もあるのだ。そんな、偏見や噂だけではなく、事実にも基づいた評価が、アドルを含めた冒険者という者たちにはある。
悪印象を持っているシリルが、自分たちの歌を評価してくれたということは、それらの評価を吹き飛ばすほど気に入ってくれたと言う事だ。
「冒険者としても、歌を歌うものとしても、それが嬉しくないわけがないね」
アドルの言葉に、ノルベルトが口につけていたグラスを外して、盛大な溜息を吐いた。
「そんな理由で、ろくに話も聞かずに請けたのか」
「単純というか、なんと言うか……」
「らしくないね」
「……単調な魔物退治より面白いとも思ったんだよ」
彼に続いて、ワイン片手にあきれ口調で言う部屋の主たちに、アドルは口を尖らせて反論する。
この街は平和だ。通りに出てくる人々の表情を見るだけで分かる。だから、この町にいる冒険者に求められるのは、門の外にいる魔物退治くらいしかないのだ。正規兵が見張る道を歩いて見張るか、近場に現れた大物を退治する。近場に遺跡でもあれば遺跡調査やその手伝いの依頼もあるが、あいにくオルシスの周囲にそのようなものは見つかっていない。
今日シリルに会ったときも、アドルたちは、その面白くないが冒険者の仕事にしては安定した収入を得られる、魔物退治の帰りだった。
昨日もそうだ。一昨日も。いや、この街に来てから、魔物の強さに差はあるが、アドルが請けた仕事はその手のものばかりだった。地元密着型冒険者がてこずるような魔物も倒した。だから、たった一匹の魔物を倒すという依頼は役不足だと、ルーディは判断したのだろう。
強い魔物を倒すことがアドルたちの本領だと思われているのなら、不本意も甚だしい。
「話を聞けば、実際面白そうでもある。成功報酬だけど、歌を作ることも許されたしね……で、どうして降りたんだ?」
小さな机に乗せた腕に顎を置いて、アドルはちょこんと首を傾げる。ノルベルトが、苦りきった表情を浮かべた。
「なぁ、アドル」
ふぅと溜息を吐いて、ノルベルトはグラスをアドルの肘のすぐ横に置いた。
「守られる対象に守られる気がない場合――いや『守られたくない』場合、お前ならどうする?」
アドルはノルベルトの顔を覗き込んだまま、数回瞬きをした。そして、あぁと呟いて、腕を解きすぐそばにあったグラスを片手に両手を掲げた。お手上げの姿勢。
「もう、勝手にしろ、って思うね」
「だろう」
ノルベルトは苦い笑みを浮かべた。
つまり、それが彼らが仕事を放棄した理由な訳だ。
「イレーネ姫の様子ですか?」
首を傾げたフェイスに、そうだ、とアドルは頷く。
ノルベルトたちの話を一通り聞いたアドルは、まっすぐにダッグの城へと戻り、フェイスを自分たちの待機室へと呼んだ。シリィはまだ戻っていない。おそらく、夜遅くになるであろう。彼女が居ない間、姫の警護はエドが担う。当然だが、シリル付きだ。そちらの方が、依頼人も安心だろうし、こちらも、変な誤解を受ける可能性が少なくなるので都合が良い。
「本当に、退屈している様でしたね。わたくしの話を楽しそうに聴いておられました。夜、皆が集まったら勇者の物語を歌うと言いましたら、とても喜んでくれましたよ」
「で、フェイスはどう思った?」
アドルの問いに、そうですねぇとフェイスは再び首を傾げ、天井の端をぼんやり眺めた。自分の頭の中にあるものを表現する言葉を探す時の、彼女の仕草だ。
「立場を分かっておられるのかな、と疑問を感じました。わたくしのくだらない話を、大変楽しそうに聞いておられましたから。そうでないのなら、よほど肝の座った方なのでしょうが……」
つまり、魔物に狙われている女性の示す態度にしては、呑気過ぎる、と言う事だ。
「私たちの歌う物語、何をリクエストしたと思います?」
この話の流れでフェイスがそう聞いてくるのであれば、十中八九今回の事象に似た物語だったのだろう。
「そうだね。例えば、危険に晒された姫を勇者が助けて結ばれる」
「……相変わらず、盗み聞きしたのではないかと思うような回答ですね」
フェイスの捕捉によれば、結ばれ方はなんでも良いらしい。とにかく、姫と勇者が幸せであれば。
確かに、魔物に狙われて、おびえているお姫様では無いのはわかった。
「事態を把握できていないお花畑と、全てを運命として受け入れているナルシストだったら?」
「……どちらも違いますね。ナルシストだとしたら、悲劇のヒロインになりきるタイプだと思います」
彼女はとてもお伽話が好きですよ、と、同じくお伽話が大好きな少女が評する。
「フェイスと同じで、お話と現実を完璧に分けるタイプということは」
「彼女は、彼女の白馬の王子さまを信じています」
フェイスははっきりと言い切る。恐らく、イレーネ自身がそう言ったのだろう。自分たちのパーティに、憶測で断言する者はいない。
「吸血鬼が白馬の王子様だと思い込んでいる可能性は?」
「アドルちゃん」
そこまで聞いたところで、フェイスは彼女だけが許されているアドルの呼び名を呼んだ。いや、何度訂正しても直さないから諦めたのだ。他の者が真似をしたら、絶対許さない。
「ノルベルトさんから何を聞いたのです? こちらの情報だけを得ようとするのは卑怯です」
「あ──あぁ、ごめん」
アドルは素直に謝った。
前情報なしにフェイスがイレーネに対して感じたことを知りたかったから、意図的に言わなかったのだが、質問が先走りした様だ。
「ノルベルトが依頼を放棄した理由は、姫が守られる気がないから、だって」
「──あぁ、それで納得しました」
フェイスは聡い。それだけで、アドルの質問の意図を察する。
「アドルちゃんは、魅了の呪と見ているのですか?」
「可能性もある、とは思っている」
神の力を地上に生きるモノが行使する方法を『魔法』と言う。それがモノを害するものなら『呪』と呼び、モノを助けるものなら『祝』と呼ぶ。
そんな魔法の中に、人の心を特定の人へ強制的に惹きつけるものがある。恋の神々が使うといわれている魔法だ。それの総称を俗語で『魅了』と言うことが多い。
「解呪を試みますか?」
「頼む」
人から受けた魔法を解くのは、僧侶の役目の一つだ。僧侶でもあるフェイスはその為の魔法を知っていた。
「でも、相手の強さがどのくらいか読めないのが不安ですね」
「戦闘力はたいした事はないとノルは言っていた」
純粋な力だけが問題であるなら、どれだけ楽な仕事だろう。あの手の、人の成れの果てが相手の場合は、それだけでないから厄介で……不謹慎だが、面白い。
「解呪、出来るでしょうか?」
あの呪文は害がないから、不確定要素でも試してみる価値はある。しかし、害がないという事は、効果も薄いという事。条件が揃わなければ、解呪の呪文は単なる綺麗な歌だ。
一つは、術者の力が呪よりも強い事。
一つは、対象者がその呪を拒絶している事。
両方とも未知数だ。成功の確率を聞かれても、アドルは答えないだろう。
「最善を尽くすしかないだろう?」
そうですね、とフェイスは笑う。とりあえず、シリィが帰ってくるのを待ってから、解呪を試してみようということになった。全力を尽くすなら、パーティ全員がいる必要があった。鶏をさばくのに牛刀を使うくらいがちょうどいい。
「ねえ、アドルちゃん」
一段落ついて、冒険者たちの待機室に用意されたお菓子に注意がいったアドルを、フェイスは呼び戻す。
アドルは真っ先に目についた焼き菓子を手に、ん? と顔を上げた。
「もし『魅了』ではなかったら?」
「どういう理由があって、吸血鬼を拒否しないかが問題になる。こればかりは、姫自身に聞かなきゃいけないけど……」
「答えますかね?」
「さぁ?」
アドル肩を竦め苦笑する。
ノルベルトは「守られない」とだけ言った。安いワインが気に入らなかったのか、口にするのも腹立たしい何かが起こったのか、具体的に何を以って、彼女が守られようとしていないと判断したのか、それを教えてくれなかった。
後一つ彼らが教えてくれたのは、この城内の者たちは秘密主義だ、と言うことだ。欲する情報は、何もくれない。確かに、領主は姫を守れとしか言わなかった。守るべき対象がそれを望んでいない言う、守る側にしては重要な事を言わなかった。それに街中。為政者の姫君が魔物に狙われているという、野次馬としては魅力的な話題は、全く飛び交っていない。城にいる者たちが、このことに関して一切漏らしていない、と言う事だ。
恐るべき、そして、必要以上の口の堅さである。
「厄介だな」
思わず呟いたら、フェイスがクスクスと笑い出した。
「楽しそうですね」
事実だから、否定しない。
「ねぇ、フェイス」
「はい」
「魔法以外の理由、いくつか考えつく?」
「そうですね……」
フェイスは首を傾げ、天井の隅を見つめた。これは、言葉を探すときの彼女のくせ。つまり、理由がいくつか、既に彼女の頭の中にはある、と言う事だ。
「その1。本当に恋をした」
アドルもそれは考えた。
「その2。吸血鬼の存在に同情して、自分の力で救おうと思っている」
「狙われている自分しか、彼を救えない! って?」
茶化すように言ったら、フェイスはまじめに頷いた。
「そういう、吸血鬼と姫を題材とした物語が本棚にありました。あれは最後、人に戻った吸血鬼と姫が結ばれます」
よく見ている。
「その3。別に死んでも構わない」
「なぜ?」
「年頃ですから、例えば政略結婚とか。例えば叶わぬ恋に悩んでいるとか……そうですね」
フェイスは胸の前で両手を組み、うっとりと語り出した。
「例えば幼馴染のシリルさんに密かに恋心を抱いているとか。シリルさんはあの通り堅物ですから、思いを告げることもままならない。あぁ、そこに意に沿わぬお見合いの話が。お嫁にいけば、家に仕えているシリルさんと離れなくてはいけない。彼は彼女の執事ではなく、城の使用人なのですから……シリルさんと離れてしまうのなら、好きではない男の元へ嫁ぐのも、吸血鬼に殺されるのも変わりない。いや、殺されるのなら、その後、ずっと叶わぬ思いを抱き苦悩し続けることはない……そうか、吸血鬼は、私を救いに来てくれたのね! 一方シリルさんの方も、必死で否定しているけれど本当は……って、アドルちゃん?」
「……………………」
気がついたら、アドルはテーブルにうつ伏せになって、寝息を立てていた。フェイスはつまらなさそうに唇を尖らせて、アドルのやわらかな白い頬を突っつく。
「これからが面白いのに……」
フェイスは軽く目を閉じて、再び胸の前で手を組んだ。
眠っているようにも、瞑想しているようにも、祈っているようにも見えるその姿は、彼女がこの世界にある、ありとあらゆるモノをネタに物語を考えている姿なのだと知っている者は、多くない。
雇われた冒険者が、次に揃ってイレーネの前に現れたのは、彼らが来た次の日の夕食後だった。お待たせして申し訳ないと言った彼らは、この夜、彼女の護衛のために現れた訳ではない。
彼らは壁を背に、軽く弧を描いて一列に並んだ。上手からエド、シリィ、フェイス、そしてアドル。頭の高さが、綺麗に下り坂だ。背の順かしら? とイレーネは頭を傾げる。
「イレーネ姫」
この二日で仲良くなったフェイスが一歩出た。
「この度は我ら『勇者のための四重唱』へ歌を所望して頂き、ありがとうございます」
彼女は芝居じみた仕草で一礼する。
「イレーネ姫と、シリル様のために選んだ物語を、吟じさせていただきます──が、その前に、すこし、おまじないをしてもよろしいでしょうか?」
「おまじない?」
「はい。歌を気持ちよく聞いていただけるように。歌の余韻を心地よく感じていただけるように、物語を始める前にはいつも、おまじないの歌を歌っているんです」
どうしよう? イレーネは背後に控えるシリルをちらりと見た。いつも通りの表情だ。彼は、過保護なこの使用人が渋い顔をしていなければ、多分、問題ない。イレーネは頷いた。
「では、お願い」
「ありがとうございます」
そして、また一礼。にこりと親しげな笑みを浮かべて、彼女は一歩下がり仲間の弧へと戻った。
何度も見た、吟遊詩人が持つ不思議な笛をエドが咥えた。ツーと、笛よりも尖った音が響く。続いて、同じ音を彼らは口ずさむ。これが何の儀式なのかとか聞くことは、イレーネのような者には許されていなかったから、彼女はこれがどんな意味を持つものなのかは知らない。深窓の姫君に許されていたのは、身分が確かな吟遊詩人や演奏家を招き入れることと、彼らの演奏を拍手で褒め称えることだけだったから。
手品の様に笛を手の中から消したエドが、右手を胸のあたりで握り締めた。それに合わせて、ピタリと音が止まる。彼らは互いに目配せをしてから、イレーネと、その背後に控えるシリルへと向き直った。
最初に口を開いて歌い出したのはフェイス。
しかし、そこから紡がれた音乗せられた言葉は始めて聞くものだった。
イレーネは困惑してシリルの方へ顔を向ける。彼もよく理解できないらしく、困惑顔で、しかしうっとりと、その歌を聞き入っていた。確かに、理解できない発音だが、美しい旋律だ。聞いたことのない不思議な曲だが、なぜか心が落ち着く。
フェイスの高く、細い声に寄り添う様に、一音が加わる。静かな落ち着きを持ったアルトはシリィ。
女声が絡まるように音を紡ぐ。そこへ、彼女らの音を支えるような、低く響く声が加わった。
混声三重唱となり、その音に深さが増す。絡み合う音が、心の絡まりの間に滑り込み、やさしくほどいていく様な、そんな心地よさがあって、イレーネは瞳を閉じてその旋律に聞き入った。
密やかに、滑り込むように入ったアドルの音に気づく前に、イレーネの意識は音と共に、深く沈んでいった。
気が付いたら、朝だった。
「おはようございます」
声をかけたのは侍女ではなく、冒険者の少女だった。
「おはよう……ごめんなさい、寝ちゃったのね、わたし」
彼女の顔を見て、昨晩の事を思い出す。吟遊詩人となった彼らが話を始めた記憶が、イレーネにはない。その前に眠ってしまったらしい。
「疲れていたようですね」
「そうね……」
イレーネが起き上ると、フェイスが水差しと洗面器を持ってくる。水で口をすすぎ、フェイスの手を借りてイレーネは立ち上がった。寝室のベッドではなく、居室のクッションで寝たから、体が少し強張っている。しかし、頭はすっきりしていた。
「ちょっと、ここしばらく寝不足だったのかもしれない」
ここしばらく悩まされていた、頭にかかった靄が晴れている。久々にすがすがしい朝だ。イレーネは自らの足で窓際へ行き、カーテンを開ける。決して寝過ごしたわけではないのに、強い日差しが窓から部屋へと差し込み、イレーネは目を細める。しかし、寝不足特有の頭痛は襲って来なかった。夏至前の強い日差しが、気持ちいい。
「不思議で綺麗な歌に、安らげたみたい」
イレーネはふわりとほほ笑む。
「ねえ、フェイスとお仲間たちは朝御飯食べたの? もしまだなら、1階で一緒に食べない?」
上機嫌のイレーネに、お言葉に甘えてとフェイスは頷いた。
シリルは柔らかな絨毯の廊下を、大股に、大きな足音を立てて歩いていた。
向かう先は2階。無人の客室が並ぶ中、唯一役割をはたしている部屋だ。
扉の前で、一応ノックを2回。返事を待たずに、勢いよくドアノブを回して扉を押し開けようとしたら、事前に開いて、シリルは勢いのまま数歩たたらを踏んだ。
「おはよう……シリル」
内側から扉を開けたエドが、シリルの目の前に立っている。シリルはごほんと空咳をして、体制を整えた。
「ぼ、僕たちに──姫に、何をした!?」
上擦った声が、エドを責める。
「何を……って?」
「気がついたら朝だった。あの『おまじない』は一体何なんだ!?」
「解呪の呪文」
胸倉を掴んだエドの背後から、呑気で馬鹿正直な返事が返ってきた。エドの高い肩越しに視線をちらりと動かせば、あくびをかみ殺したアドルが椅子に座わっている。
「解呪? 無断で姫に呪文をかけたのか?」
シリルはエドを睨みつける。エドが気まずそうに視線を逸らした。アドルへと鋭い視線を送ったら、彼の青い瞳は真っ直ぐシリルを見返した。
「そう」
アドルの答えにシリルの眉が釣り上がる。眉の角度に比例して、エドの胸ぐらを掴む力も増した。
「姫に魔物が何らかの呪をかけている可能性があったから──あぁ、大丈夫。祝は消えない。あれは、対象者の『意に沿わない』魔法だけを解くものだから」
「害は……ない?」
うん、とアドルは頷く。
「副作用で、解れた心がリラックスして、眠くなる事があるくらいかな? 別に呪にかかっていなくても、呪文の音律自身が沈静作用を持っているから、不眠で悩んでいる人なんかに僧侶がよく使うこともある」
「不眠……」
「最近、よく眠れていないんじゃないですか? 姫も、あなたも」
「!」
アドルの言葉に、シリルは目を見開いて、手の力を緩めた。エドは彼を刺激しない様にそっと彼の拘束から抜け出して、彼の表情をうかがう。
「……そうだな。吸血鬼のことで、誰もが気を張っていて……ここしばらく、ゆっくり眠れたことが無い」
「そうだよね」
アドルの声には労りがある。
「何に備えるにも、体は万全にしていないといけない。ゆっくり眠れたのだったら、よかった」
そうだね、とシリルは照れ笑いした。無断で呪文をかけた事は許しがたい行為だ。だが、それが心から姫の為だというのがわかれば、全てを許せる。逆に、勝手に害意を想像して怒っていた自分が恥ずかしい。
「姫も、ぐっすり眠れたおかげなのか、今日は晴れ晴れとした様子だった」
今朝のイレーネの様子を思い出す。自然と口元が綻んだ。
シリルは顔を上げてエドとアドルへと向き直る。
「怒鳴って悪かったね。礼を言うよ──ありがとう」
エドはアドルと顔を見合わせて、ほっと息をつく。その二人の顔を見て、シリルは別の意味で眉を寄せた。
「それにしても……今日は君が酷そうだ」
心配された冒険者は、誤魔化すように薄笑いを浮かべた。見間違いではない。その目の下には、確かに濃い隈がくっきりと浮かんでいる。
「調べ物をしていたら、空が明るくなっていただけだ」
心配そうな青い目に、アドルが幾分やつれた顔で笑う。
「徹夜? 一人で?」
「いやいや。エドと一緒に、色々と」
「エドと?」
シリルは疑いの眼差しでエドとアドルを見比べる。彼の目の前に入るのは、はっきり憔悴していますとわかる表情のアドルと、いつもと変わらず平然としているエド。
どう考えても、エドは昨晩ゆっくりと休んで体力が充実している者の姿だ。
「体力が違うんだよ」
エドは苦い表情を浮かべた。
「一晩や二晩の徹夜でどうにかなるような、やわな体力は持ち合わせてないんでな……誰かと違って」
「申し訳ないね。一晩の徹夜でどうにかなりそうな、やわな体力しか持ち合わせていなくて」
「しかし、本当に大丈夫なのかい?」
ぷくりと膨れる姿は愛らしいが、それだからこそ、疲労した姿が痛々しく見えた。
最後に会った時より幾分やつれたように見える少年は、シリルの問いに驚いて目を見開く。
「いい人だなぁ、シリルさんは!」
感嘆の声とともに駆け寄ってきたアドルは、シリルを見上げて、がっしりと彼の両手を握った。心なしか、充血した瞳がうるんでいる気がする。
「ならず者一歩手前の冒険者を、こんなに気遣ってくれるなんて……それだけで、この仕事を受けた価値がある!」
「大げさだろ……痛っ!」
ぽつりと呟いたエドは、いきなり苦悶の表情を浮かべてしゃがみこんだ。原因は、シリルもしっかりと見えた。アドルが黙れとばかりにエドの向う脛を蹴飛ばしたのだ。あれは、痛い。
一方、加害者であるアドルは、二人の様子を無視して言葉を続けた。
「でも、大丈夫です。これでも、三日三晩徹夜で過ごした実績ぐらいはある」
胸を張って答えられると、かえって胡散臭いのは、なぜだろう?
「……大丈夫なら、いいけど」
うん、とアドルは満面の笑みで頷いた。
「終わったら、しっかり寝込めるから」
いや、まて。
そう突っ込む暇はなかった。ちょうどその時、シリルが開けっ放しにした扉を覗き込んだ侍女が、姫が冒険者との朝食を望んでいると伝えに来たからだ。