姫と執事と吸血鬼と 4
今回の件で冒険者が来たのは3組目だが、姫が食事を誘ったのは初めてだった。それほど気に入ったのだろう。
殆どの日をたった一人で使っている、広く細長いテーブルは、久々に賑やかになった。上座を背に、大きな窓から見える中庭を望む位置に座るのは、招待者のイレーネだ。中庭を背に4つの椅子が並ぶ。そこにちょこんと座るのが、4人の冒険者である。
使用人たちは決して主家の者と一緒に食事をしない。シリルも部屋の一角に立って給仕の手伝いだ。
貴族の朝食はシンプルだが、豪華だ。
主食はバターをふんだんに使った焼き立てのクロワッサンと、ふわふわの白パン。ジャムは瓶詰めにする前の出来立てイチゴジャムだ。それぞれの皿には朝取ってきたばかりのレタスとトマトのサラダと、生みたて卵を使ったベーコンエッグが載っている。メイドが、それぞれのコップに注ぐのは乳だが、これもヤギではなく牛の乳である。
食事の前の祈りの歌は、ちょっとしたショーだった。いつも誰もが歌う食事の祈りが、この冒険者たちにかかると一気に芸術品へと変わる。使用人たちは思わず手を止め、聞き惚れてしまった。
食事の間は無言である。庶民の家庭にあるような、食事中の弾む会話というものが、貴族には存在しない。口にものがある間に話すのは下品であり、食事の手を止めるのは失礼であるからだ。夕食なら、食事と食事の間に会話をする時間を作るのも給仕の仕事だが、最初からすべてテーブルに出ている朝食で、それはない。一緒に食事をするといっても、姫と冒険者は黙々と食事をとる。最後に注がれた一杯のお茶が、唯一、会話の出来る時間だ。
「今日は、どうするの?」
イレーネの質問に、アドルはちらりと中庭へ視線を向けてから答えた。
「……今日は、家にいます」
彼らが来て3日目の今日は、我らが国の守護月、蒼月が満ちる日である。月は青空に上り、一日この国を見守る。おそらくアドルが視線を飛ばした中庭から、それは見えるであろう。
「不躾なお願いよろしいでしょうか?」
「なあに?」
上機嫌の姫は、小首をかしげてアドルのお願いを促す。
「領主様と、もう一度お話をしたいのですが」
「……問題ないんじゃないかしら?」
今度は、不思議な表情で反対側に首をかしげた。雇い主に会うのに、なぜ自分の許可がいるのか不思議なのだろう。
「シリル、手配してあげて」
「かしこまりました」
シリルは一礼する。姫の一筆があっても、会うのは難しいだろうと思いながら。
「フェイスは、わたしと一緒に来て?」
「喜んで」
フェイスが笑って答えた。姫は、本当にこの僧侶が気に入ったらしい。
青白い月が、中庭の空から半分だけ姿を見せていた。
東の空にある月は、太陽よりもゆっくりと西へ進み、日が落ちるころ中天に至る。そして再び東から日が昇る前に、西の山へと落ちてゆく。4つある月の中で、一番姿を現している時間が長く、姿を消している時間が長いのが、蒼月だ。
「何か、おもしろい物が見える?」
ぼんやりと空を眺めていたフェイスは、はかなさを感じる可憐な声で、我に返った。
「月が大きいな、と思いまして」
「あら、フェイスはここの国の人じゃないの?」
国の守護月である蒼月が大きいのは、この国の人間にとって当たり前の事だ。蒼月が大きい事に驚くのは、国外の人間であると言っているのと同義である。
「僧侶として修行するために、この国に来ました」
「フラビスの人?」
金月を守護月として奉っている国を挙げたイレーネに、フェイスは苦笑を浮かべながら窓に背を向けた。淡い金の髪が、ふわりと揺れる。
「まさか。国王じゃあるまいし、少々安直な発想では?」
「確かに、そうね」
金の髪と瞳を持つ僧侶のやんわりとした苦言に、淡い緑の髪を持った蒼い国の姫君は笑う。
4つの月をそれぞれ守護月として奉っている4つの国が、大陸にはある。戦乱の世が終わり、4つの国が出来たとき、それぞれの王は、月の色を神より賜った。南のオストルムの巫覡は、紅緋の髪と瞳を。西のビリディス帝王は、深緑の髪と瞳を。東のフラビス国王は、黄金の髪と瞳を。そして、ここカルーラの聖王は、青藍の髪と瞳を。
ただし、それは王族に限ったことだ。王家の血を引く者ならいざ知らず、その地に住んでいるからといって、その色を持つとは限らない。……月と神の影響を受けてかどうか、比較的その色の瞳や髪を持つ者が多いことは確かだが。
「ごめんなさいね。フラビスなら、たとえ本当でも簡単に『そう』とは答えられないわよね」
イレーネは、食事中に侍女が用意したティーセットを机の上に置いた。朝食をとったばかりなのに、まだ食べるというのだろうか?
両国はここ数年、控えめに言えば、良好な友好関係を築けているとは言えない。ズバリ言えば、敵対している。国境沿いでは戦端が開かれていた。敵国フラビスの人を、この国の人間が受け入れる訳がない。
「わたくしは、クロム峠を越えてここに来ました」
「では、ビリディスの?」
「姫様」
フェイスは答えずに、困った表情を浮かべた。
「冒険者に出身地を聞くのは、タブーです」
「あっ!」
イレーネは慌てて口を抑える。その仕草が可愛らしくて、フェイスの口元が緩む。
「本当にフラビス王国から来ている人だっていますから」
「……スパイとかじゃなくて?」
「ギルドは、中立です」
「そう。じゃあ、安心ね」
安堵の溜息をついて、イレーネは椅子に座る。
フェイスは曖昧な笑みを浮かべたまま、口を噤んだ。
確かに、大陸全土に点在するギルドは中立を守っている。それはすなわち、どの国から来た依頼でも受けると言う事だ。たとえ、所属する国と敵対する国から、内偵の依頼が来たとしても、断らない。また、ギルドは中立だが、それに属する冒険者までもが、中立とは限らない。ギルドは中立が故に、その点に敢えて触れない。
だから、ギルドの中立というのは、決して、国にとって安心な訳ではないのだ。
だが、フェイスは彼女にそれを教えない。
「それよりも」
フェイスは、再び窓へと視線を移す。渡り廊下によって見えない部分のある蒼月が、すべて見えるようになるには、もうしばらく時間が必要らしい。
「蒼月には、何がいると言われているのです?」
これは、物語。各国の守護月には、それぞれ神話と呼ばれているお伽話がある。
「蒼月は、水の月なのよ」
初めてのフェイスからの質問に、イレーネは目を輝かせて答えた。
「空に映る月には人魚が、水面に映る月には龍が住んでいるわ」
「空と、湖」
その発想は面白い。水の国カルーラならではの発想だ。
「人魚は水鏡で国を覗いて、素敵な人を見つけたら人の姿で国に降りてくるの」
人魚は沢山の水と共に空から降りてくるので、カルーラでは雨が降る。雨雲から降る雨ではないから、その時の雨は太陽が出ている状態で降る。
「だからこの国では、天気雨は『人魚の嫁入り』って言うのよ」
「降りてくれば、お嫁入りなんですか?」
「だって、天女様だもの。誰が拒む……あぁ」
拒む人などいる訳がない。そう言いかけて、イレーネは溜息をつく。
「あるわ。悲劇」
初めてその物語を読んだとき、悲しくて眠れなかったと、彼女は憂い顔で言う。
「……人魚は、目的の人と添い遂げられなかったら、泡になって消えるの」
「命懸けの恋なんですね」
そうなのと頷いたイレーネは、不意に笑みを消し、片手に持ったティーポットをギュッと握り締める。
「そんなの理想よ。夢なの……命を懸ける恋が出来る人なんて、いない」
イレーネは純白のティーポットを暗い目で睨みつけて、黙り込んだ。そこに、仇がいるかのように。
フェイスは無言でイレーネをまっすぐ見つめて、彼女が再び口を開くのを待った。
外からは、噴水の音と中庭に集まった鳥の鳴き声が聞こえてくる。階下からは、侍女たちが仕事をする音が。石造りであるこの城は、意外にも防音効果が低い。食堂の椅子や机を動かす音が、遠く響く。
「……ねえ、フェイス」
せわしなく動く椅子の音が消えた頃、ティーポットを握る手を緩めたイレーネが、口を開く。
「フェイスは、恋の為に命を懸けられる?」
難しい問いである。こんなこと、実際に目の前で起こった時でないと、わからない。想像と現実は全く違うことを、フェイスは知っている。
「わかりません」
フェイスは正直に答えた。
「じゃあ、それは愚かだと思う?」
「いいえ」
即答したのは、これも本心からだからだ。
「全てを賭す何かがあるという事は、たとえそれが苦しく、悲しい事でも、素敵な事だと思います」
この場合、その『何か』が恋であるだけの話だ。だから、愚かだとは思わない。
「……そう。ありがとう」
イレーネは再び俯いて黙り込んだ。
フェイスには、彼女の様子が、何か大切な事を言おうとして、言いあぐねているように見えた。こういう時にかける上手い言葉を、フェイスは知らない。だから、彼女が再び口を開くまで、待つしかなかった。
「わたしは、それを知りたい」
ようやく紡がれた声は、小さく掠れていたが、強い意志を持っていた。
「命懸けの恋があるか知りたい。そして、出来るなら……」
「命懸けの恋をしたい?」
フェイスの継いだ言葉に、イレーネは顔をあげて、正解、とほほ笑んだ。
「フェイス、貴女はわたしに何も聞かず、わたしの質問に真摯に答えてくれた。だから、お話するわ」
ふわふわとしていた声に、強さが宿る。それが、彼女の決意だとわかった。
「今回の吸血鬼の事と、わたしの願いを」
ここで初めて、魔物に狙われている姫君は、その話題を口にした。
行ってはいけない、と言われているところへ行くのは、気が進まない。
エドはぼんやり天井を眺めながら、使用人がせわしなく動く廊下を、のんびり歩いていた。
フェイスは姫様に連れられて、彼女の部屋へと行ってしまった。アドルとシリィはシリルと一緒だ。エドの出番は、アドル達がラードルフに面会できなかった時にやってくる。凄まじく気が進まない。願わくは、アドルが舌先三寸で上手く領主を丸めこみ、必要な情報を引き出して頂きたいものだ。そんな事を考えながら歩いていたら、ドスンと腹辺りに何かがぶつかった。
「わわっ」
声とともに、何かが倒れる音。驚いて視線を下ろせば、廊下の絨毯に尻もちをついている女性と、散乱した洗濯物が目に入った。
「すみません!」
ぼうっと歩いているエドに、忙しく動き回っていた女中が衝突したらしい。でかいのが上見てぼうっとしていたら、死角が増えて迷惑だ、と言っていたのは、頭がエドの視線よりも下にあるアドルだったか。
「いやいや、こっちこそすまないですね」
大きな籠を抱えた中年の女中がよいしょと立ち上がる。背の高さはアドルくらいか。彼の指摘通り、ぼうっと上の方を見ていたエドの死角に入っていたらしい。
床に散らばった洗濯物を集め始めた女中を見て、エドは慌てて手伝う。
散らばった洗濯物は、彼女が持っていた籠が一杯になってもまだ残っていた。
「ここは、ほら、コツがあるんですよ」
シーツと男物のシャツを手に途方に暮れたエドへそう言って、白いエプロンをした女性は、ホイホイと器用に手早く洗濯物を積み上げ始める。エドが手を出す間もなく、半分以上残っていた洗濯物は綺麗な山となって籠の上に積み上げられた。エドが驚いてその様子を見ている前で、女中はよいしょと籠を持ち上げる。持ち上げられた洗濯物の山は、彼女の背丈を超えていた。成程、これでは前が見えない。
「持ちますよ」
立ち去ろうとした女中にエドが声をかけると、彼女は、そうかい、悪いですね、と悪びれもせずに言って、エドへと籠を預ける。予想外の重量に数歩たたらを踏んでから、エドはさっさと先導し始めた女中を追って歩き始めた。
たどり着いたのは洗濯場だ。水が豊富なカルーラは、川から城に導線を引き、その水で生活を営む。洗濯場の中央には、そこから引きこんだ水が横切っていた。
「そこに放り込んで下さいな」
彼女が示したのは、水路から少し入った所にある水たまりだ。エドは一旦地面に籠を置いて、上から洗濯物を一つ一つ丁寧に水たまりへと落としていく。
「じれったいねぇ」
そういう声が聞こえたかと思ったら、エドの背後から現れた別の女中が、籠の尻をひょいと持ち上げて、豪快に洗濯物をひっくり返した。派手な水音を立てて、大量の洗濯物が水たまりへと落ちる。何と言う力強さ! 手際の良さ! エドは大きな水しぶきを見ながら、働く女性に感嘆した。
エドの感嘆を尻目に、洗濯場にいた女中達が集まってきた。一人が白い粉を振りかける。女中たちは、靴を脱ぎ捨てて水の中に飛び込んで、歌を歌い始めた。彼女たちが歌に合わせて洗濯物を踏むと、たちまち薄汚れた泡が溢れてくる。仕事だと言うのに、まるで水遊びをしているかのような様子に、エドは思わず笑みが漏れた。
「あなたもやってみます?」
傍観しているエドに気付いた一人の声が、泡から飛び出した。
「いや……」
仕事の邪魔をしないように退散しようと考えたが、止めた。
「脱水ぐらいだったら、手伝うよ」
「手搾りで?」
「やだ、手で絞ってくれるの!?」
「イマドキ~?」
黄色い笑い声が、仕事場に溢れる。彼女たちは、可笑しくてしょうがない、と言った様子だ。何か変な事を言ったのだろうか?
くすくすと笑いながら、エドを誘った女性が説明する。
「脱水機があるから、大丈夫ですよ」
「え! 脱水機、あるのか!?」
流石、領主の城。一般市民には高根の花である脱水機があると言う。
驚いて声をあげたら、今度こそ笑いが弾けた。
「見たい?」
「見たい!」
エドが即答すると、女中は彼の手を引いた。
「なら、一緒に洗濯をしましょう」
「喜んで」
エドは引かれるままに、女性たちの輪の中に入っていった。
5人の女性と一緒に洗濯物を踏んで洗う。女たちの歌声に、低く響く男の声が、そっと重なった。仕事を捗らせる事が目的の単調な歌は、1度聴けばすぐ覚えることが出来て、一度覚えればなかなか忘れられないのが特徴である。
足元の泡の中にあるのはシーツやカーテンだ。それに紛れて下着もある。エドが遠慮なく参加できるのは、その下着が全て男物なのを、目敏く、しかしこっそりと確認したからだ。女性の下着や貴族たちの着る絹のシャツなど、荒々しい踏み洗いには向かない生地の物は、四角い溜まり場の三辺で一つずつ手洗いしている。残りの一辺は用水路だ。そこから常に汚れた水が流れ出し、綺麗な水が入ってくる。
「兄さん……えっと」
「エド」
エドを誘った女中が彼に声をかけようとして、呼び名に困った様だったので、エドは歌の合間に、短く自分の呼び名を滑り込ませた。城主に雇われた冒険者として城を歩きまわっているから、彼女らはエドの顔は知っている。だが、紹介されたわけではないから、名前を知らない。
「あたしはイザベラ」
にかりと笑う女性は、頭一つエドより小さく、エドの倍くらい横幅のある女性だ。大陸に一番多い茶色の髪に少し白いものが混じっている。
「エドは、あの可愛い3人の誰が本命なんだい?」
「……え?」
エドの歌が止まった。
なんか、いきなり望まない方向へ話を振られた気がする。
エドはかろうじて足を動かしながら、困って周囲を見回した。岸で手洗いをしていた3人の女性が、手を止めてこちらを見ている。エドと一緒に洗濯物を踏んでいた女性たちは、足は止めないが、歌を止めていた。そのほか、洗濯場でそれぞれ自分の仕事をしていた女性たち皆が、エドに注目している。
「男の夢よね、ハーレム」
シルクのシャツを握りしめて、年若い女中が黄色い声をあげる。
「ハーレム?」
「そうよね」
「4人パーティのただ一人の男、こういうの、黒一点とでも言うの?」
「しかも3人、それぞれタイプが違う」
「清楚を絵にかいたような女性」
「出るところが出ている豊満な女性」
「ボーイッシュな女の子」
ざわざわと、エドの望まぬ会話が展開され始めた。
どうも、自分達は女3人と男1人のパーティだと思われているらしい。まず、その誤解を解くべきなのだろうか? アドルの不機嫌な顔と、八つ当たりされる自分の姿が、すぐに浮かんだ。
「いや、ハーレムじゃないし……」
「エドさんは大きいから、誰が並んでも似合いそうよね」
「赤毛の人も体格いいから、並ぶと壮観よぉ」
「そうね。すごい迫力のあるカップル」
「でも、エドさんが細っこ過ぎて、ちょっと頼りないわぁ」
「ちょうどいい感じなのは、僧侶さんかしら」
「でも僧侶でしょう?」
「異性との付き合いを禁止している神様じゃないでしょう。もしそうなら、そもそも、一緒のパーティを組めないわ」
「そんなぁ……夢がない」
「そうよぉ。そこは、神様も認めさせるという一大ドラマの方が面白いわよ」
「でも、私は空色の子が良いな」
「私も! 胸の中に簡単に収まりそうで、超可愛い~~」
……口をはさむ暇すらない。
女性たちのかしましい声を聞きながら、エドは空を仰いだ。湿気に強い石造りの洗濯場の天井は、遠い。
「で、どうなんだい?」
再びイザベラが口を開くと、皆がぴたりとお喋りを止め、エドを注視する。
期待に満ちた視線が申し訳ないと思いながら、エドは口を開いた。
「生死を共にする仲間だ。そんな感情、抱いていられない」
「……お堅いわねぇ」
残念そうな声と共に、そこかしこで大きな溜息が聞こえた。エドは思わず視線を洗濯物へと移す。そんなにがっかりされても、困る。
「堅いと言えば、シリル坊よね」
「シリル?」
いきなり転換した話題に、エドは顔をあげる。
「姫様の幸せが僕の幸せです。ってねぇ……」
「姫様、可哀想」
ぽそりと呟いたのは、エドと同じ年頃の少女だ。
「どういう事だ?」
「はい、今度は濯ぐよ!」
エドの問いは、イザベラの豪快な声によって掻き消された。女性達の半分が水路へと移動する。エドもイザベラに押されてそちらへと移動した。残りの半分が、泡の中に沈んだ洗濯物を、川へと投げる。それをうまく受け取り、川の流れを利用して石鹸を洗い落とすのだ。
「はい」
エドに布を渡したのは、先ほど呟いた少女だ。
「えっと……」
受け取った布を綺麗な水に浸す。薄汚れた泡が流れだし、そこから真っ白になったシーツが現れた。
「姫様が一番好きなのは、シリル様なの」
「リーザ」
イザベラが、リーザと呼ばれた少女の小さな声を咎めるが、彼女は首を横に振って反抗した。
「だって、エドさんたちは、姫様を助けにきたのでしょう?」
「……そうだな」
「だから、黙らない。姫様を、本当に助けてほしいから」
「困った子だね」
イザベラは肩を竦めて自分の仕事に戻る。他の女性達は、彼女に対して暖かな、励ますような視線を向けていた。
「どういう事だ?」
「仕事は続けて」
リーザはそう言って、次の布を渡す。エドは慌てて濯ぎ終わったシーツを置く場所を探した。エドの隣にいる女性が反対側の岸を指差す。そこにある籠には、びしょびしょの布が放り込まれていた。エドはそこへシーツを投げ入れ、リーザが差し出している布を受け取る。
「姫様は、小さい頃から一緒のシリル様が大好きなの。姫様の夢はね、シリル様を婿養子にする事」
「婿養子……」
具体的だが、非現実的な夢だ。
「無理だって思ったでしょう?」
リーザが睨むように見上げてきた。
「……難しい、とは思った」
イレーネとシリルは主従関係にある。主従が対等になるのは、難しい。だが、不可能ではない事をエドは知っている。
必要なのは、周囲の理解と、相互の覚悟。
「城主が許すのか?」
「あら、旦那様は、シリル様をあんなに贔屓してらっしゃるじゃない」
別の方から、高い声が返ってきた。
「あの二人、表向きには主従だけど、ずっと一緒に暮らしてきた兄妹の様なものだもの。どこの馬の骨とも知らない奴に渡すくらいなら、ご主人様はシリル様を選ぶわ」
「問題は、シリル坊の方なんだよね」
いつの間にか、イザベラも会話に加わっている。
「あの子は、分を弁えすぎている。絶対、主従の一線を越えないんだよ」
「それが、姫に対する愛だとでも思っているんだろうね」
だから堅物は、と言う声が聞こえた。
「けど、そうやって己を必死で律しているのが証拠だね」
「……何の?」
そりゃ、当然。
彼女達は顔を見合わせて、にやりと笑った。イザベラが、代表して口を開く。
「彼も姫に恋している」
ぶんっ、と放り投げた服が、水滴をきらめかせて、籠へふわりと降り立った。
「二人の最大の障壁は、シリルの堅さなんだよ」
だからね。
「エド。あんたもそのお堅い雰囲気、どうにかした方が良い。そういう話さ」
……何が「だから」なんだ?
エドに理解できたのは、話が元に戻ってしまった事だけだ。
小川の流れに浸して石鹸を洗い流している間に、脱水機は二人掛りで洗濯場に持ち込まれた。大きな桶の上に、ハンドルが付いているものだ。ひょいと覗き込めば、桶の中に、桶よりも少し小さな籠が入っている。
「じゃあ、エド」
すっかり打ち解けた女中が、エドを呼ぶ。一緒に石鹸を洗い流していた者たちに背を押され、脱水機の前へとエドは向かった。
機構は、理解できる。籠の中に洗濯物を入れて、ハンドルを回すのだろう。そうすると、籠が回る。遠心力によって、水が飛び散り、桶に溜まる。単純だ。だが、単純なだけに、これを考えて、作り上げた者を賞賛したい。
感動の面持ちで脱水機を見ている目の前で、仕事中の女たちは次々とすすぎ終わった洗濯物を籠へと入れる。あれよあれよと言う間に、籠の中が一杯になった。
「はい、ちょっとごめんよ」
一人がエドの前に割って入り、ハンドルをひょいと持ち上げて外した。向かい側にいた二人が重そうな気の蓋を桶に被せる。真ん中より少しずれた穴に、ハンドルが入っていた棒が突き出している。そこへ、取り外したハンドルを再び取り付ける。
これで、準備完了だ。
「はい、エド」
「え?」
女たちが、期待のまなざしでエドと脱水機を見る。
ま、まさか……
「俺が、脱水してもいいのか?」
「やってみたいんだろう?」
仕事の邪魔でしかない来訪者に、何と優しいんだろう!
エドは、感動してハンドルを手に取った。
脱水機。主婦たちの夢の機械。ギルドにいるバイトのおばちゃんも欲しいと言っていた、文明の利器。
エドは張り切ってハンドルを回した。
「重っ!」
回した瞬間、エドは唸る。
ハンドルは予想外にもずっしり重い。全身の力を込めると、ようやく回り始めた。
エドは体全体を使って1回、2回とハンドルを回す。3回、4回と回すうちに、徐々にハンドルが軽くなっていっている事に気付いた。5回、6回と回していく手はどんどん速くなる。桶の中で、ゴロゴロと高速に籠が回っている音が聞こえた。ぱちぱちと聞こえる小さな音は、飛び散る水滴が桶にぶつかっている音だろう。
「やぁ、凄い凄い!」
「流石男の子、力持ち」
女中達が囃したてる。
エドは恥ずかしくなって、桶の蓋に頭をつけた。
「やだ、この子顔真っ赤」
「可愛い、照れちゃって」
「純情だわ~」
穴があったら入りたい。
エドは手だけはしっかり回しながら、大きい体をさらに縮ませる。
予想はしていたが……やはり、働く女の力強さには、勝てる気がしない。