勇者のための四重唱


小さな大平原 5

 必要ないとは言われたが、夜中も王女の天幕の前で護衛をする事にした。念の為なので、不寝番は一人。初日は体力に自信があるエドだ。

 フェイス達は、すぐに駆けつけられる位置に与えられた、小さな天幕で寝ていた。手足は延ばせないし、筵の上だから、地面のゴツゴツが感じられて、良い寝床とは言えない。しかし、それでも贅沢だとフェイスは思っている。グンターの指示でどこかへ行った他の冒険者たちは、恐らく野宿だろう。

 フェイスは横になって目をつぶっていたが、しっかりと起きていた。頭がいつにないくらい回転していて、とてもじゃないが眠れそうもない。

 隣で丸まって寝ているシリィを起こさないよう、フェイスは密かに長く息を吐いた。

 手は、自然と胸の前で組まれている。


 会うまでは嫌悪感しか抱けなかったアドルフィーネ王女だったが、会ってみればなかなか好感が持てる人だった。シリィの言う通り、フェイスが彼女に抱く怒りは、八当りだろう。彼女自身は良い子だ。アドルに対する深い思いやりも見えた。アドルと同じ種類の食えなさも感じなかったわけではないが。

 そしてその姿は、アドルに与えられた悲しい運命を見せつけた。

 だが、フェイスに与えた衝撃は、それだけではない。


 一言で言えば、それは『理想の体現』だ。


 フェイスはずっと、口には決して出せない思いを抱いていた。

 なぜ、アドルは男の子なのだろう、と。

 その思いは、エドとじゃれている姿を見るたびに大きくなる。小さくて可愛らしいアドルと、すらりと背が高く精悍な顔付きのエド。二人が並ぶ姿は、フェイスが長年抱いていた『理想のカップル』そのものだった。

 エドが、パーティ入った時、電撃が走ったのを覚えている。二年のブランクを全く感じさせず、当然のように並んで座るエドとアドルを見て、叫びだしそうになったのを。

 しかし、惜しいのはアドルが男である事だ。

 世の中には、男二人を見ると恋人に見立てる女性もいる。フェイスに空想の楽しさを教えてくれた、修道院のお姉様方の半分はそれだった。だが、フェイスにその嗜好はない。

 あるのは、どんな場所でも物語を作り、のめり込む、空想癖だけだ。アドル達に提供している物語など、ほんの一端に過ぎない――これでも、極力外に出すまいと、必死に自分を律しているのだ。

 絶対言えない空想の中に、アドルが女なら? という物語がある。絶対にありえない、幼馴染のロマンスだ。しかし、男同士のロマンスが嫌だからと、片方を女性にするのは、たとえ空想の中でも気が引けた。趣旨替えして、男性同士のロマンスも考えたが、気が乗らなかった。


 そんな時に現れたエドのもう一人の幼馴染。

 アドルと同じ姿をした、愛らしいお姫様。

 正真正銘の、女の子!

 彼女に対する色々な感情とは別の場所で、フェイスは感激に打ち震えていた。思考が飛んで行かなかったのは、彼女自身に抱いていた、現実的な感情と興味お陰だ。それでも、もしなんの事前情報もなければ、感動のあまり倒れていたかもしれない。


 すっかり彼女を忘れていた幼馴染の男の子は、ならず者予備軍の冒険者。

 ずっと彼を覚えていた幼馴染の女の子は、一国の王女様。

 彼女はどういう思いを彼に抱いていたのだろう。

 彼女には、許嫁を振った逸話がある。その理由は? 想いの人がいたから? なら、誰?

 すっかり彼女のことを忘れていた彼は薄情と言うべきだろう。しかし、何年ぶりかの再会。そこで蘇る思い出と、見つけた新たな彼女の姿に、彼は何を思う?

 しかし、どんな感情があっても、二人は王女と冒険者。護衛と被護衛者。それ以上になる事は、身分が許さない……


 フェイスは悲恋も好きだ。

 ただし、物語に限る。


 フェイスの胸の中で展開する今日会った少女を中心とした物語は、一つだけではない。

 フィーネとアドル。光と影。本物と偽物。姉弟よりも近い従姉弟。フィーネのアドルに対する思い深い。フィーネは彼が彼らしくある事を願っていた。では、アドルはどうだろう? 彼女は、アドルは自分の役目を受け入れていると言っていたが、実際は?

 そして『同志』である元婚約者……彼は何を思い、二人は何を企み、一緒にいるのだろう。そこに生まれている感情は、複雑怪奇な筈だ。


「はぁ……」

 フェイスは深い溜息をつく。

 湧き出る空想に、頭が追いつかない。

 幸せだ。

 こんな殺伐とした戦場にいるのに、フェイスは今、世界で五本の指に入るくらい満たされている。

「幸せそうだね」

「!!」

 寝ていると思っていたシリィが話しかけてきて、フェイスは驚いて飛び起きる。そんなに驚かなくても、と言われても無理な話だ。完全に空想に浸っていて、第三者の介入を予想していなかったのだから。

「お、おおおおおお……起きていたのでふかぁっ?」

 声が上ずった挙句に、噛んだ。フェイスは自分の顔が赤くなっているのを自覚した。

 動揺するフェイスに気付かないのか、気にしないのか、シリィはいつもの調子である。

「寝てたよ。うつらうつらね」

 フェイスは彼女の答えに、熱い頬に両手を当てたまま瞬きをした。

 うつらうつらとは、珍しい。彼女はいつでも熟睡だ。すぐに寝付いて、すぐに覚醒する。羨ましいくらい寝付きと寝起きがいいのだ。

 枕が変わったらと言って眠れなくるような繊細な人でもない。

「耳元で『うふうふ』言われ続けたら、流石に目も覚めるさ」

「え! わたくし、そんなこと言っていましたか!?」

 確かに空想にのめり込んで現実を置いてきぼりにしていたが、無意識に変な声を出していたのか?

 それは、恥ずかしすぎる!

 顔を真っ赤にして叫んだら、シリィが豪快な声で笑いだした。

「いや、いや冗談だよ! 目が覚めたのは偶然」

「酷い」

「目を開けたら、目の前に明後日の方を向いて、幸せそうな笑みを浮かべたアンタがいたのは本当だけどね」

「……う」

 幸せそうな、が具体的にどんな表情だったかは、怖くて聞くことができない。知らない方がいいこともあるのだ、世の中には。

 言葉に詰まったフェイスに、シリィがにっと笑いかけた。

「で、どんな面白い物語を考えていたんだい?」

 この問いには驚かない。彼女はフェイスの空想癖を知っている。なので、フェイスは微笑んで答えた。

「企業秘密です」

「そりゃ残念だ」

 それで終わり。彼女は深く追求することをしない。そこが物足りなくもあり、ありがたくもある。

 彼女は素っ気ないが、言葉は常に心に忠実だ。だから、社交辞令ではなく、フェイスの話が聞けなくて残念だと思ってくれているのは確かだった。申し訳ないが、仲間をネタにした空想は、絶対口には出せない。詫びにいつか、別の物語を語ろう。

「でも、それとは別に気になる事はあるようだね」

 気になる事。

 ありえない物語ではなく、現実として考えてしまうこと。

「そうですね」

 フェイスは頷いた。

「でもそれは、アドルちゃん達の事ではありません」

 そう、フェイスが気になるのは、アドルじゃない。

「エド、おかしくありませんか?」

「そうだね」

 アタシもそう思ったよ、と彼女は呟いた。



 それから数日、天幕の前で名ばかりの護衛の仕事をしながら様子を見ていたが、王女の天幕は、意外と人の出入りが激しかった。

 一番行き来しているのは若い貴族の息子モーラだ。そして、親馬鹿伯爵セザール。

 他にも出入りする人がいたが、大体中年で、なんとなく偉そうな強面の男達だった。指揮官の貴族達なのだろう。ただ、彼らが王女の天幕に入るときは、必ず中にモーラがいる時だった。おそらく、王女ではなくモーラに用事があったのだろう。

 シリィがどこからともなく仕入れてきた情報によれば、この戦の総大将はフィーネ王女だが、事実上の総大将は公爵家の二男坊モーラだと言う。副将がセザール。その下に、グンターを含む他の貴族達が付く。

「お家柄の良い順だね。もっとも、モーラはそれなりの実績もあるようだけど」

「実績?」

「国内有数の剣の使い手と言われているようだよ。軍を率いて魔物退治などもやっているらしいね。あぁ、冒険者としての実績もあるよ――聖都のギルドで何度か見たことあるね」

「冒険者なのかよ!」

 エドは思わず叫ぶ。

「パーティは特に組んでいないけど、どこかのパーティに紛れたり、単独で動いたりしていたね」

「姐さん、最初からモーラ知っていたのかよ……」

 彼女は悪びれもせずに頷く。

「貴族さんで、イレーネ姫に振られた男だと言うのは、チェルトラで初めて知ったけどね」

 だがこれで納得した。上層部に冒険者がいるのであれば、冒険者の扱いに慣れていても不思議ではない事を。冒険者の世話役であるグンターは、彼らを良く理解していた。だが、それだけではなかったのだ。

「実績もあって、貴族としても最上位にいるモーラが総大将じゃ駄目だったのか? わざわざフィーネが出てくる理由ってあるのか?」

 エドの問いに、そこはお偉いさんの考えだろうから分からないとシリィは答える。

「王女を頭に添える事で、わかる事はありますよ」

 別の答えを提示したのは、フェイスだ。エドは彼女へ顔を向けた。

「わかる事?」

「王家の人間が指揮を執る価値があるほど、聖王はこの地を重要だと思っている、と言う事です」

「正解」

 軽薄なバリトンが、天幕の方からした。天幕の中にいたモーラが出てきたのだ。

「あとは、フィーネ王女のデビューかな」

 表に出ることが決してなかった、カルーラ聖王の跡取り。幻とも言われている王女が、人々の前に出る初めての機会だ。

 もうエドは、彼女が『幻』と言われる程露出しなかった理由を理解している。そもそも聖都に居なかったのだ。

「こんな血生臭いでのデビューと言うのが、この世の中らしくて俺は好きだね」

 軽薄な笑顔をモーラは浮かべた。

「実際は、俺達指揮官の合議によって作戦は決められる。一応、決まった作戦を姫へ報告して、承認は得るけどね」

 頷くのが彼女の仕事、という訳だ。

「フィーネ姫は、本当にお飾りなのですね」

「いいんだよ。彼女はそれを自覚しているし。そうしないと、回るものも回らなくなる」

 それに、とモーラは続ける。

「彼女がお飾りでもここに居るって事が、重要なんだ。彼女の存在は、こっちの意気込みの具現化だ。そして――」

 モーラは視線を遠くへと向けた。

「――それが、向こうの士気を高める」

 彼の視線の先には、カルーラ最大の平原がある。そこには、作付けが出来ずに荒れた田畑と、一年籠城を続けている城があった。

「王女が総大将で、シャフロン平野奪還の作戦が立てられているって、セルペンは知っているのかい?」

「こっちは大々的に発表している。フラビスも知っている事だから、恐らく話は届いているだろう」

 現在カルーラは、セルペン以東と殆ど連絡が取れていない状態だ。黒の民を使ったりしてどうにか状況を把握できてはいるが、相互の意思疎通は難しいらしい。恐らく無策ではないであろうセルペン側の情報網に引っかかる事を期待しての行動だ。

「実は、フィーネがここに来たのは、君たちと同時なんだけどね」

 にやりと笑って、モーラは付け足した。

「……へ?」

「峠を越えるとき、妙に兵士が多いと思わなかったかい? あれ、護衛だよ」

「そ、そうだったのか」

 気にもしなかった。それが普通だと思っていた。

「アドルのおかげで、大分丈夫になったけどね。それでも人より弱いから、長い間戦線にいるのは無理だ。決戦の時に居て、事の決着を見届ければそれで良いんだよ」

「政治と言う奴ですね」

「そうなるのかな」

 モーラは少し難しげな顔をして、首を傾げた。



 殆ど天幕に引き籠っているフィーネが外に顔を出したのは、雲一つない秋空が広がる昼下がりだった。

 彼女の髪よりも濃い蒼が空一面に広がっている。透明感のない青い空の下に見える山の色はまだ緑が濃いが、夏のような瑞々しさを失ってきていた。冬の訪れを否が応にも感じられる冷たい朝だったが、秋の日差しが大地を暖め、昼には動けば汗ばむくらいに温かくなっている。

「フェイス!」

 天幕から出てきたフィーネは、青空に負けない明るい笑顔を浮かべて、フェイスを呼んだ。

「わたくしですか?」

「そうそう」

 まさか自分に用があるとは思わなかったのだろう。フェイスは大きな目を更に見開いた。手招きに応じて彼女の元へと駆け寄るフェイスの後に、当然のようにシリィとエドも付いていく。これが、彼らの仕事だ。

「貴方に会わせたい子がいるの」

「子?」

 行けばわかるわ、と言って、フィーネはさっさと歩きだした。フェイス達は、慌てて王女の後を追う。

 フィーネは薄い空色の髪の毛を風に遊ばせながら、ひょこひょこと歩く。冒険者であるアドルとは違い、彼女の歩き方は警戒心のかけらもない。動き易い踵の低いブーツで、跳ねるように歩いているのは、はしゃいでいるからだろう。

 そんな少女の後姿を見て、あることに気付いたのはフェイスだった。

「フィーネ様、外に出られるの初めてじゃないですか?」

 三人は今日まで、天幕の前でずっと暇を持て余していた。彼らの護衛対象が天幕から出てこなかったからだ。太陽の元にいる彼女がエドは想像しにくかったので、彼女がずっと天幕に篭っていても不自然なことだとは思わなかったが、フェイスは違ったらしい。

「もしかして、体調がよろしくなかったのですか」

 フィーネは足を止める。三人が追いつくのを待って、彼女は小声で言った。

「聖都からここまでって、思ったより大変で……」

 それから今まで、体調が良くなかったという事か。気まずげなフィーネの言葉にエドは納得する。あまりそう見えなかったが、体調が悪くても平気なふりをするタイプの人間は、すでに知っている。

「私は大丈夫だって言っているのに、モーラやセザールが過保護でね、今まで出してくれなかったの」

「彼らの判断が正しい気がするぞ」

「酷い!」

 深く考えずに出てしまった言葉に、フィーネが叫んだ。

「あ――えっと、スミマセン」

 怒鳴られてエドはあたふたと謝るが、彼女の叫びには笑いが混じっていた。

「アドルもそう言う扱いなのね。あーもう、なんで私たちの『大丈夫』を信じてもらえないのかしら」

 それは、日頃の行いじゃなかろうか。

 この場に居ない、モーラやセザールと言ったフィーネの世話をしている貴族達も、この意見に賛同してくれる気がした。


 フィーネがフェイス達を連れて行ったのは厩だった。

 陣の最深部にある即席の厩舎だ。厩が陣深くにあるのは、カルーラ軍にとって馬が物資輸送の手段でしかないからだ。騎馬隊を持たないカルーラでは、馬たちの働く場所は戦場ではない。コッコリオへと繋がる峠道だ。

 フィーネは厩番の兵士と二、三言葉を交わす。兵士は怪訝な顔をしながら、厩舎の中へと入って行った。

「誰だろう?」

「現地の神父様、という訳でも無さそうですね」

 フェイスも首を傾げる。僧侶であるフェイスに会わせたいのであれば、神職の何者かと想像するのは、難しくない。だが、神職にある者が厩舎にいるのは一般的ではない。馬好きで四六時中馬と一緒にいる僧侶がいたらいけないわけではないが。

 間もなく兵士が厩舎から連れてきたのは、一頭の馬だった。

「馬?」

 いや、厩なのだから馬が出てきて不思議ではないが『会わせたい子』というから、人間だと思い込んでいた。

「綺麗な子でしょ」

 兵士が連れてきた馬を横に、フィーネが笑みを浮かべる。

 確かに綺麗な馬だった。濃い茶色の身体に、艶やかなたてがみ。スラリと伸びた脚は、山道を駆けるカルーラ馬の太くて短いそれとはまるで違う。

「この子、フラビスの馬ですか? それにしては……」

「残念ながら、ハーフよ」

 あぁ、それで。とフェイスは納得する。

「向こうの馬より小柄でがっしりしているには、そのせいですね」

「……これでもがっしりなのか?」

 すぐ傍にいたシリィに聞いたが、彼女は肩を竦めて首を傾げるだけだ。

「撫でても?」

「この子が許してくれるなら」

 フェイスは馬の前に立ち、つぶらな瞳をじっと見つめた。どのくらい見詰め合っていただろうか、彼女は不意に笑みを浮かべる。今まで彼女の微笑みは沢山見てきたはずだが、これは、そのどれとも違った。

 なんの混じり気もない、純粋な喜び。

 初めて見る無邪気な笑みに、エドの心臓がぴょんと跳ねた。

 彼女は誰にも見せた事のない笑みを浮かべて、いきなり馬の首に抱きついた。手綱を持った兵士がぎょっとする。兵士だけではない、フィーネも驚いて、深い色の瞳を見開いて硬直した。

 一方馬は、いきなり抱きついたフェイスに驚くでも、怒るのでも無く、鼻面をそっと彼女の首筋に埋める。癖の無い砂色の髪の感触を楽しむかのように。フェイスもフェイスで、抱き着いた状態で馬の耳や鬣をなでている。

「……驚いた」

 フィーネが本当に驚いた表情で呟いた。馬を連れてきた兵士が、彼女の言葉に何度も首を縦に振る。

「どういう事だ?」

「この子、気難しくて。誰にも懐かないし、誰も乗せてくれないのよ」

 フェイスならもしかして、と思って紹介したのだけれども、予想以上だったと、呆然と語る。

「フィーネ様、彼女の名前は?」

 馬とじゃれあいながら、フェイスが尋ねる。この馬、牝馬だったのか。エドはそれすら判別付かなかった。

「――プリマ・ヴェント」

「プリマ」

 フェイスはふわりと微笑んで牝馬の名を呼ぶ。

「プリマ・ヴェント、乗ってもいい?」

 厩番の兵士でも、王女でもなく、馬本人にフェイスは尋ねる。プリマ・ヴェントの方が何と答えているのか、エドには全く分からないが、どうやらフェイスは彼女と意志の疎通ができているらしい。

「鞍、要る?」

「貸してください」

 フェイスの答えに、兵士が厩へ駆けて行った。


 プリマ・ヴェントとは春の風と言う意味らしい。春に生まれたから、そう名付けられた。彼女は今、フェイスを乗せて小さな広場を駆けている。

 その様子を見ると、フィーネの言葉を疑いたくなる。プリマ・ヴェントはフェイスを喜んで乗せているようにしか見えないから。

「いきなり抱きつくとか、ありえないっすよ」

「私には、鼻先すら触らせてくれなかったのに」

「俺だって、手綱引いて歩かせることまでしかできなかったっすよ」

 一頭と一人の様子を見ると信じられないが、傍らで呆然としている二人を見れば、彼女たちが嘘を付いていないことは分かる。

 しかし、疑問もある。

「なんで、フェイスならって思ったんだ?」

 フェイスは僧侶だ。僧侶が馬の扱いに長けているとは、思わない。

「フラビスの騎馬との合いの子は、あの子だけでね。多分一番草原を駆けれる子なんだろうけど、性格の問題で誰も乗れなくて勿体ないな、って思っていたの」

「プリマ・ヴェント、あの人にあげてもいいんじゃないですか?」

「そうね。乗れるのがフェイスだけだし」

 枯れかけた草原に腰を下ろして彼女たちを見ていたフィーネは、おもむろに立ち上がった。

「フェイス!」

 フィーネの呼びかけに、フェイスはすぐにプリマ・ヴェントを伴ってやってくる。近くない位置で馬から降り、彼女を引いて。

「この子、あなたに預けるわ。可愛がってあげて」

「良いんですか?」

 フェイスが満面の笑みを浮かべる。

「その代わり、緊急の伝令で走ってもらうわ。この子が一番速いから」

「はい! ありがとうございます」

 彼女は高く良く通る声で礼を言い、プリマ・ヴェントに飛びついた。彼女は二人のやり取り理解したのだろうか。一声啼く。フェイスの喜びに答えるように。


「預けるって、この戦が終わるまで?」

 フェイスとプリマ・ヴェントの心温まる交流を目を細めて眺めていエドの横で、シリィが王女に尋ねる。

「フラビスは馬があったほうが便利でしょう?」

 つまり、今後の旅の仲間として、プリマ・ヴェントを連れて行って良い、という事らしい。

「ただ、彼女がフラビスの普通の馬に足る能力を持っているかが問題なのよね」

「フラビスの馬って、そんなに性能がいいのか?」

 フィーネは、さあ、と首を傾げる。

「分からない。でも、カルーラの漁師が使う船は、他国の軍船より性能がいいわよ」

 『四国一の騎馬』を持つフラビスで使われている一般の馬の性能のも、推して知るべし、と言う事か。



 プリマ・ヴェントは、フェイスが付いている時なら他の人間も乗せるようになってきた。

 と言っても、エドもシリィも彼女に乗る気はない。彼女に乗りたがっているのは、カールラの王女様だった。

 あの日以来、フィーネは毎日のようにフェイスを誘い、プリマ・ヴェントの元へと行く。彼女が天幕の外にいる時に護衛するのがエド達の仕事だから、当然着いて行かなければいけない。

 最初はフィーネを全く相手にしなかったプリマ・ヴェントだが、フィーネのしつこさに折れたのか、フェイスの顔を立てたのか、仕方がないなと言った様子で鼻を撫でるのを許すまでに二日。背に乗ることを許したのは、更に三日後だ。

「暇なのかねぇ……」

 馬の背で喜ぶフィーネを見ながら呟くシリィは、誰よりも退屈そうだ。

「ここ数日、ずっとここでお馬様と戯れているけど」

「お飾りだから、基本暇なんじゃねえか?」

 やはり暇なエドは、馬場の冊の上に行儀悪く腰かけて浮いた足をぶらぶらさせていた。

「お偉いさんも全然来ないし、膠着してんじゃないかね」

 彼女が天幕に篭っていた時、何度もやって来ていたモーラや他の将軍達は、この馬場に顔を出していなかった。天幕にもやって来ないので、エドも少し気にはなっていた。

「そりゃ、仕込みが終わって、後は時が来るのを待つだけだからだよ」

 聞き慣れない声が、エドの疑問に答える。全く気配を感じなかった事に驚いて、エドは柵から飛び降りた。咄嗟に声のした方から距離を取り、常に携帯している短剣を構える。

 エドに気付かれない様に背後に近づくとは、相当気配を消す事に長けている。暗殺者か?

 エドは臨戦態勢を取り、現れた者へ視線を投げる。

「いい反応だ」

 品定めをするような口調の人物は、エドの胸くらいまでしか背がない男だった。その顔を見て、エドは力が抜けた。

「おや、偽ミロ」

 突然の来訪者にも全く動じていないシリィが、来訪者に向かって、気楽に挨拶をする。

 現れた人物は、顔見知りだった。友好的な間柄かと言えば疑問だが、少なくとも敵対していない――今は。

「チャドだよ、姐さん」

 彼は苦笑を浮かべる。チャドと名乗った男は、子供と見紛う体格だがエドよりも歳上である。始めて会った時は濃紺の髪だったが、今は漆黒の髪と瞳をしていた。黒の民である。

 ここに来る前にフラビスの誰かに雇われアドルを殺しに来た男だ。アドルに看破された上に懐柔されて、カルーラに雇われた事は知っていたが、ここで会うとは。

「髪と目は染めていたのかい?」

 シリィが何の屈託もなくチャドに近寄り、彼の短い髪を引っ張る。その黒い髪は、エドの記憶よりも短くなっていた。

「魔法の秘薬でね」

「無茶をする」

 シリィが呆れて溜息を吐いた。

 人は、生まれ持った色を変えることが出来ない。魔法でそういう風に見せる方法はあるが、それは幻覚魔法の一種で、実際に色を変えるのではない。それをやってのけたことを考えれば、シリィが呆れるのもわかる気がする。

「おかげで髪がバサバサに荒れて、このザマだけどな。早く切らないと禿げそうだったから」

 だから髪を切ったのか。

「それより姫さんは……」

「フィーネに用かい?」

 シリィが僅かに警戒を始める。

「事実上の雇い主だからな」

「フィーネが? モーラじゃなくて?」

 黒の民であるチャドの仕事は、偵察や伝令だろう。そう言うことを必要としているのは、お飾りの総大将であるフィーネではなく、事実上の総司令官モーラじゃないのか。

「書類上はフォルトモーラ様だな。だが、実際オレを使い倒しているのは、姫さんだよ」

 人使い荒いよ、あの子と、チャドは渋面を作る。

「どういう事だ?」

 彼女が黒の民の力を必要としている理由が分からず、エドは軽く混乱した。

「そんなの『お飾りの総大将』ってのが表向きだからだよ」

「んん?」

 チャドの答えに、エドは眉をしかめる。

「姫さんはお飾りの総大将。実際はフォルトモーラ様が取り仕切っているように見せているけど……」

「彼女も、そういうのを好むタイプなのかい」

 シリィが苦笑する。『彼女も』と言った段階で、エドにも何となく察しがついた。

「実際は、モーラを通してフィーネが指揮をしている?」

「その通り」

 チャドは嬉しそうに言うが、答えを得たエドとシリィは渋面だ。

「まどろっこしい。直接指揮すりゃいいじゃないか」

 と言うのが、シリィが顔をしかめる理由らしい。エドは違う。

「……変なところで似やがって」

 どっかの誰かさんみたいに、裏で物事を思うとおりに進めるのを好むとは。その誰かさんに引けを取らない厄介な性格である。

「失礼ね」

 と、その本人から抗議の声が上がった。

 チャドの来訪を知ったフィーネが、こちらに来たのだ。彼女を乗せてあげていたプリマ・ヴェントは、フェイスに撫でられて目を細めている。

「ぽっと出の小娘よりも、実績のあるモーラが指揮を執った方が物事がスムーズに動くから、こういうややこしい事をしているのよ」

 それはほとんど愚痴のようだ。しかし彼女は、チャドの言ったことを否定しない。

「天幕に戻ります。そこで話を聞くから、先に行って待っていて」

「承知」

 彼は恭しく一礼し、足音もなく去る。それを見送ってから、フィーネは腰に手を当て大きく息を吐いた。

「さて、終わりの始まりよ」

 フィーネはくるりと踵を返し、フェイスの横で大人しくしているプリマ・ヴェントの鼻面をなでる。ふわりと笑って、フェイスと共に、厩舎へと彼女を連れて行った。

「エド、見たかい?」

 二人の少女の後姿をぼんやりと見ていたら、シリィが声をかけた。

「何を?」

「フィーネ、笑っていたね」

「……あぁ」

 シリィも見たか。

 彼女は笑っていた。プリマ・ヴェントに微笑みかける前に。

 それは、これから起こる事態に嬉々として挑む戦士の笑みに見えた。彼女が積極的にこの戦に関わっているのを裏付けるかのような、生き生きとした笑みに。

読んでいただきありがとうございます。もしよろしければ、Web拍手で応援してください。