小さな大平原 6
秋の月は明るい。その上今夜は、四つの月が各々好き勝手に空を照らすから尚更だ。闇色であるはずの夜空は斑模様になっている。これを幻想的で綺麗だと言うか、禍々しくて不気味だと言うかは、見た人の好みや気分によるだろう。
エドは、定位置となったフィーネの天幕の前で、火を焚いていた。火の上には鍋が置いてある。しっかり蓋がされた鍋の中には、今日配られた雑穀が入っている。
風のない夜だ。焚き火の煙はまっすぐ上へと登っている。エドは煙を追って空を見上げた。エドの場合、斑色の空は不安を掻き立てる。
昼間、陣に残っている兵士が広場に集結した。
エド達もセザールに促されて、広場へと行った。集まったのは殆ど青系の軍服を着た兵士である。ぱっと見た範囲に冒険者は見当たらなかった。
広場の北側には、まるで誂えたかのような高台がある。広場にいる全員を見下ろせるその小さな高台に、立派なマントを羽織った偉そうな兵士が並んでいた。おそらく、彼らがこの戦の上層部なのだろう。セザール伯の灰がかった青い髪と髭も見えた。
広場は、緊張感に包まれていた。今この時、陣に待機している戦士たちを集める理由など一つしかないことを、誰もが知っているからだ。
全員が集まり、ざわめきが消えた頃合を見計らってモーラが姿を現す。事実上の総大将は高台の中央に立ち、兵士達を眺めまわした。彼の視線を受けて、兵士たちは背筋を伸ばす。
「ついに、雪辱を果たす時が来た!」
モーラの若々しいバリトンが陣内に響く。深さと豊かさを持った彼の地声は、戦地の喧騒の中でも良く届だろうと、想像できた。
「敵の卑劣な奇襲により、肥沃なシャフロンを奪われ早一年。肥沃な土地が蹂躙されている様を見て耐える日々はもう終わりである!」
なぜ、この手の演説は、小難しい言葉を使うのだろう。しかし、彼の言葉は青い軍服を着た兵士たちの士気を上げるのに、効果的だったようだ。息を詰めて彼の言葉を聞いていた兵士たちが、一斉に声を上げる。
それともこの流れは、お約束なのだろうか――冒険者のエドには、分からない。
兵士たちの歓声が納まったところで、モーラは自分が現われた方に視線を向ける。それに釣られるように、広場の兵士達も壇上の将軍達もが首を動かした。
視線の先から少女が現れた。
青い軍服を身にまとった、空色の髪の少女――フィーネ王女だ。今日は、いつも履いている膝丈のスカートではなく、他の兵士と同じズボンを履いている。
少女は背筋を伸ばして将軍たちの前を横切る。そして、舞台の中央、モーラの横で立ち止まってこちらを向いた。
大人たちに囲まれて、彼女は本当に小さく見える。
一時は静かになった兵士の間に、再びざわめきが広がった。今度は興奮の声ではなく、困惑のそれだ。
「みなさん」
ざわめきの中で紡がれた音は、弱々しく、しかし妙によく通った。
「わたしは、アドルフィーネ・カエルレウス。カルーラ聖王国の第一王女です」
細い声は広場全体に響き渡った。その瞬間、ぴたり、とざわめきが止まる。広場に居るすべての人間の視線が、王女を名乗る少女へと注がれた。
この国の人々は、現王には娘が一人いることを知っている。だが、その娘自身の事を知らない。彼女が今回の総大将だと知っていても、その姿を知っているのは、ごく一部だ。
いきなり現れた第一王女――存在することしか知らない人物が現れて、忠実な国の兵士達は何を思うのだろうか。
数多の感情を含んでいるであろう数多の視線を受け、彼女はにこりと微笑んだ。
「長い間、辛い思いをさせてしまい、申し訳ありません」
総大将である王女の演説は、謝罪から始まった。
彼女の演説は、戦の前の激とは思えないほど穏やかなものだった。
彼女の言葉に強さや激しさ、凛々しさと言ったものは全くない。あるのは儚さと、優しさ、そして、健気さ。
肝心の演説は、要約すれば、皆の力が頼りです、頑張ってくださいと言った、酷く他力本願なものであった。だが、演説を聞いている者達は、それに気づいていない様だ。小さな王女の懇願に感銘を受けているだけで。
「本音か、演出か」
「演出だろう」
シリィが、エドの独り言に即答する。
「か弱いお姫様の必死の願い、それに応えようとする屈強な騎士達と言う図が、綺麗にできていたね」
「皆が、姫を守るナイトの顔をしていました。彼女が現われる前よりも、良い顔つきになっていましたよ」
「いいのかな」
なんとなく、釈然としない。
フィーネは確かにか弱い女の子だが、あの場で語った彼女は、エドが知っている彼女と違う姿だった。数年ぶりに会った彼女は、もっとしたたかで、しなやかな強さを持っている。
「いいんだよ。小娘が士気を上げる為に、一番効果的な人物像を作り出しただけなんだからね」
「詐欺じゃないのか?」
「この程度で詐欺って言ったら、いつもアタシ達がやっていることは何なんだい」
「……う」
そう言われると、何も言えない。
確かに、依頼人が望むようなシナリオを作って、役割を作って、それに沿うように演出をしている自分たちの行動に比べれば、この程度の演出、可愛いものだ。害もないし。
「あの一幕、演出家はアドルちゃんだと思いますけどね……」
勘ですけど、とフェイスがポツリとつぶやいた。
誰のシナリオなのか、そもそもあれが演出なのか、それは分からないが、軍の士気が一気に高まったのは確かだ。
初めて見る自称王女に涙する兵士もいるのだから、この王朝はまだまだ安泰と言えるだろう。王家が民に支持されなくなった国には、滅びの道しかない。
とにかく、王女の話でやる気全開となった兵士たちは、意気揚々と明日の準備を始める。陣中は一気に慌ただしくなった。
それは、日が落ちても続いていた。
四つの月に照らされ、ただでさえ明るい夜なのに、篝火が煌々と焚かれている。まるで昼のようだ。
せわしなく行き来する兵士の前で、エドはのんびりと目の前の鍋を見ていた。
冒険者は、常に小規模な戦に駆り出されているのと変わらない。臨戦態勢が日常である。なので、明日決戦だと言われても今更準備をすることなどなかった。
今炊いている雑穀も、支給されたから調理しているだけで、戦いの最中に食べるための携帯食は常備している。
「こんなにあからさまな準備をして、大丈夫なのでしょうか」
エドの右手で焚火を眺めているフェイスが呟いた。
「何が?」
「こんなに明かりをつけて、沢山の煙を出していいのでしょうか。敵に意図が丸見えです」
「あぁ、成程」
フェイスの説明を受けて、エドは納得した。このあからさまな準備は、明日総攻撃があると敵に伝えているようなものなのだ、と。
「アンタ……相変わらず、情報を生かすのが下手だね」
シリィは呆れ顔だ。彼女もわかっていた事なのか。
「わるかったな」
エドは情報収集能力に長けているが、その情報から状況を判断することが下手だ。
アドルにも散々言われてはいるが、それの何が問題か、実はエドにはわからない。エドが得た情報をきちんと分析して状況を判断できる仲間が、ここに三人もいるではないか。ならエドは、彼の持つ技術を生かして正確で詳細な情報を取得することに特化すればいい。下手に自分の偏見を入れて、情報の精度を落とす必要などない。
「で、敵に意図がばれて問題なのか?」
「奇襲は出来ないね」
「フラビスの騎馬隊に、正面から戦うのは無謀です」
それは、わかる。
平地では四国最強と言われているフラビスの騎馬隊だ。少しでも知能がある魔物は、フラビスの騎馬隊見るとを逃げ出すとも言われている。そんな軍団に、歩兵で、正々堂々と正面から勝負と言うのは、愚策だ。
「『策』がないわけ、ないだろうけどね」
「無策だったら、止めますよね」
誰が、とフェイスは言わなかったが、思い浮かべた人物は、三人同じだろう。
だから。
「そりゃ、突っ込んで勝てるならもっと早くにやっているさ」
「っ!?」
「ひっ!」
「お?」
「……皆してそんなに驚くなんて、失礼だな」
いきなりそんな声が掛けられて、飛び上がるなと言う方が無理な話である。
その声の主は、少し不機嫌そうに眉を顰め、たき火を囲んで座る三人を見下ろしている。
男性にしては高く、女性にしては低いその声をエド達は毎日聞いていた。だが、いつも聞いていた声よりも、僅かに低く、硬い。
「アドル」
「久しぶり」
彼らの仲間である――名を与えられなかった少年が、そこに居た。
「今までどこにいたんだ?」
アドルを目の前にして初めて、ずっと彼を見ていなかったことにエドは気付いた。
「色々なところにね」
「フィーネの代わりに?」
「そうだね」
彼はあっさりと肯定した。肯定したことにエド達が驚いていると、なんだ、と目をぱちくりさせる。
「フィーネから、話を聞いたんじゃないのか?」
「聞きましたけど……」
フェイスが戸惑いながら答える。アドルがいない所で、彼の重大な秘密を知ってしまった後ろめたさがあるのだろう。
少なくとも、エドにはある。
「彼女の口から私達のことが語られるのは想定済みだから、そんな顔をしなくていい――エドもね」
水を向けられて、エドは思わず自分の顔を撫でた。そんなにあからさまな表情をしていたか。
「知られたくない事だったんじゃないのかい? だから、強引にはぐらかした」
「はぐらかしたけど……」
コッコリオに着く前の話だ。彼と王女の名前に疑問を抱いたエド達は、一度アドルにその事について尋ねている。その時彼は、彼らしくない程あからさまにはぐらかした――いや、逃げ出した。
その様子を見て、絶対に知られたくない事だと思ったのだ。だから、彼が話す気になるまで待っていようと、決めたのだ。
「あそこで説明すると長くなりそうだったから。どうせフィーネが説明するってわかっていたし」
なのに、真実は――
「……それだけの理由?」
エドはぽかんと口が開きそうになるのを必死で堪える。彼はそうだ、と頷いた。
「だって、門の前でセザール伯が本気で苛ついているの見えたし。あの状態で話し込みはじめたら、フラビスの騎馬隊も真っ青な勢いで突撃してきただろうね」
それだけの理由、らしい。
答えの拒絶ではなかった。純粋に時間がないだけだったのだ。
「なら、もっと早くに聞いていたら、答えてくれたのです?」
フェイスの質問に、エドはそうだそうだ、と何度も首を縦に振る。自分たちが深刻に考え過ぎて、躊躇したのがいけなかったのか。
いや、真実はそれなりに深刻ではあったが。確かに、あの場で歩きながら話すようなことではなかったが。
「えっと……それは……」
アドルは目を泳がせた。篝火を映す深い色の瞳が揺れている。
「ほら、ネタがわかってたら面白くないじゃん」
「ん? 面白くない?」
なにか、風向きが変わってきた気がする。
「つまり、アタシ等を驚かせたかったから、彼女に会うまで黙っていたかった訳だね」
シリィの言葉に、アドルはにやりと微笑む。何よりも彼らしさを表す笑みであり、エドが反射的に警戒する表情だ。
「王女が天幕から出てきたのは、驚く様を外で隠れているアンタが見られるようにするためだね」
「流石姐さん」
遠い? 彼が? どこが?
「そうでしたね。アドルちゃんって、そういう人でしたね」
溜息混じりでフェイス。
エドは何も言葉を発せられず、項垂れるだけだ。
「フィーネはね、私に対して負い目を持っているから、結構私の悪戯に付き合ってくれるんだ」
焚火の向こう側にアドルは腰を落とし、手をかざす。薄い空色の毛先が橙に染まり、カルーラの夕焼けのようだ。
「そんなもの、持つ必要なんてないのに」
そう言って笑うアドルが寂しそうに見えるのは、炎が作り出す陰影のせいだけではあるまい。
「実際、どうなんだ?」
何がどうなのかは、言わなくても解るだろう。
「私は、この立場が嫌だと思ったことは、一度も無いよ」
彼は、生まれてすぐに与えられた『呪』を、押し付けられた運命を、『立場』と表現した。
「フィーネは大切な従姉で主君だから。彼女の『影』となれたことは光栄だと思っている」
「そう、思わされているだけではないのですか?」
「そうかな? 違うと思うな」
フェイスの問いにアドルは首を傾げるが、すぐに否定した。
「例え私が名前を与えられ、一人の人間として存在していても、フィーネは命をかけて守る存在であることには変わりがないんじゃないかな――どうしてか、解る?」
解らない。エドは首をひねる。視界に入ったシリィも同じような表情を浮かべていた。
だが、一人理解した者がいる。
「忠誠、ですか?」
「そう、それ」
フェイスの答えに、アドルは嬉しそうに頷いた。
「この立場が私の意志ではないのは多少癪に障るけど、結果として意志に沿っているから、問題ないんだ」
「……意外だね」
「意外だ」
「アドルちゃんにも、そういう人がいたんですね」
「――なんか、凄く失礼じゃないか?」
アドルがふくれっ面になる。だが、自業自得だ。貴族様の立場で自由奔放に、好き勝手に、冒険者をやっているアドルを見て、誰が、命をかけても良いとまで言わせる人がいると思うだろうか。ギルドの顔見知り全員が答えるだろう、思わない、と。
「それに、私は『影』の中でも、破格の待遇だとは思うよ。『本体』に恵まれたんだ」
アドルが冒険者として好き勝手出来るのも、本来は素性も存在すらも秘匿される筈なのに『アドル』と名乗り『英雄ガイアの息子』と名乗れるのも、彼女がそれを望んでいるかららしい。
確かにフィーネは言っていた。彼は、彼であるべきだ、と。そのために、名前を半分与えた、と。彼女はさらに、彼が本来あるべき場所も返したのだ。
それでも呪は消えないけれども。その中で出来る限りの方法で彼を存在させている。
「私は幸せなんだよ」
炎越しに見るアドルの笑みは、穏やかだ。だが、それが僅かに陰る。
「――彼女は、信じてくれないけれど」
それが、もどかしいのだ、と彼は呟いた。
エドは、火から鍋を下ろした。炊いた雑穀はしばらく余熱で蒸して、更に冷ます。手で触れるくらいになったら、携帯できる大きさに握るのだ。
もう少しここ居いるつもりなのか、アドルは焚き火の前でのんびりと、立ち昇る煙を眺めていた。
「アドルちゃん。馬鹿なこと、聞いていいですか?」
アドルはフェイスの方を向いて、首を傾げた。
「何?」
「アドルちゃん達は、ずっとビリディス国境の村にいたと聞きました」
「クラールだね」
「そこを出たのは、なぜです?」
フィーネが聖都に戻れるくらい元気になったからじゃないのか。『影』であるアドルがそれについて行っても不思議ではない。
聡いフェイスがあえてそれをアドルに聞く理由が、エドにはわからなかった。
「フィーネが元気になって、聖都に戻る事になったからだ。私だけあそこにいる理由もない」
アドルの答えは、予想通りだった。
「それは、いつですか」
「それを聞いて、どうするんだ?」
傍観しているつもりだったのに、気付いたらエドは口を挟んでいた。
思わぬところから来た声に、フェイスは数回瞬きをする。
「理由なんて好奇心以外に必要ないだろ――二年前の冬だよ」
アドルが苦笑を浮かべて答える。本当だ。理由を問う理由なんてない。しかも、アドルに対しての問いだ。なぜ、口を挟んでしまったのだろう。
「エドと一緒に?」
「そうだね」
「なら、なぜエドはパーティ結成時に居なかったのです?」
「!?」
エドは目を見開く。
「なぜアドルちゃんは、エドの居場所を見失っていたのです?」
フェイスが投げた疑問を、エドは一度も抱いた事が無かかった。
しかし、言われてみれば確かにそうだ。なぜ、エドはアドルと別れたのだ? 同じ聖都にいて、同じ冒険者をやっていたのに、何年も互いに消息不明になる理由がない。
今まで疑問にすら思わなかった事に、エドは動揺する。
しかし、そんなエドの様子に気付いていないのか、無視しているのか、アドルはすましたまま答えた。
「あそこを出たのは一緒だった。でも行き先が違ったから、別れたんだ」
そして彼は、苦笑を浮かべる。
「居場所を見失ったのは、不覚だったよ」
「そうなのですか、エド?」
フェイスはこちらを向いて、確認してきた。
「…………」
しかしエドは、その問に対し、首を縦に振る事も、横に振ることも出来ない。
覚えてないのだ。
アドルと聖都地下の遺跡で再会するまでの記憶が、エドは曖昧だ。あの頃、エドにとってすべての事象は斜幕越しの出来事だった。
なぜそうだったかすら、考えた事がない事に、今更気付く。
「エドは物忘れが激しいんだよ。すぐ忘れる」
「お前の記憶力が良すぎるんだ」
アドルの皮肉に反射的に答えて、エドは腑に落ちる。
記憶が曖昧なのは、純粋に記憶力の問題でしかない。昔の記憶の中で、アドルとフィーネが混じっているのも、記憶力がないからなのだ。エドはあまり頭が良くないから、そこまでしっかりと昔の出来事を覚えておく事ができないのだ。
「記憶なんて、三日前のご飯が言えれば問題ないだろ」
「で、三日前の夕食は何だった?」
しまった。すぐには出てこない。
「エドの鳥頭は今に始まったわけじゃないからいいとして――」
そこで素直に頷いていいのか悩むが、正しいから否定もできない。
「――フェイスもそうだろう?」
「わたくしも、ですか?」
フェイスは驚いて、琥珀色の瞳を見開く。
その様子に、アドルはにやりと笑った。
「フェイスは、なぜ自分が私の事を『ちゃん』付けで呼ぶか、わかっているのか?」
「呼びやすいからです」
「なら、なぜそれを私が許しているかは?」
「それは気になっていた!」
思わず声が大きくなってしまった。二人が同時にこちらを見る。傍観しているシリィの視線も感じた。自分が思ったよりもかなり大声が出てしまったらしい。が、エドは無視してそのまま続けた。
「モーラも驚いていた。俺も内心不思議だった。女に間違われることを嫌うアドルが、なんで許しているか」
「弱みでも握っているのかって、聞いていたよね」
シリィが付け足す。彼女の視線がこちらに向いたのは、エドの声に驚いたのではなく、この話に興味があったからだけなのかもしない。
「――あいつ、そんなことを?」
アドルの声が僅かに低くなる。不穏な空気を察したフェイスが、慌てて声を上げた。
「冗談ですよ。だって、アドルちゃんの弱点一つにつきデート一回とか言いましたから」
「めちゃくちゃ本気じゃん……」
「え、そうなのですか?」
エドも、あれは冗談だと思っていた。
更に不穏な空気を纏ってしまったアドルに、フェイスは更に慌てる。
「え、えっと……どちらにしろ、わたくしはあの時答えを持っていませんでしたから」
「フェイス」
アドルがあたふたとしている少女の名を呼ぶ。それは先程と一変して、穏やかな口調だ。逆に怖い。
「別に、奴のフォローなんてしなくていいんだよ」
「……はい」
穏やかな笑みと、全く笑っていない瞳に、フェイスは大人しく頷いた。
それほど深い仲でもないが、近い未来アドルによって引い起こされる不幸を、モーラが無事乗り越えられる事を祈らずにはいられない。
「因みに、フェイスにその呼び方を許しているのは、何を言っても無駄だと知っているからだね」
「でも、わたくし一度も咎められたことありませんよ?」
フェイスはアドルの答えが、腑に落ちないようだ。
「でも、言っても変えないのは確かだろう?」
「……えっと」
フェイスは琥珀色の瞳を中空にむけて、しばらく考える。彼女の視線は空を三往復してから、アドルへと向けられた。
「否定できません」
「それ以外の呼び方に、違和感があるからだね?」
「そうです……が、何故わかるのです?」
「同じ事を言われたから」
「ですから、それは、いつ?」
フェイスには全く記憶にないらしい。パーティを組んだときから一緒にいたシリィに視線を向けたら、首を左右に振った。彼女にも記憶にないらしい。
「うちの父と一緒にフェイスのお父さんに会いに行ったとき」
「ふぇ!?」
フェイスが変な声を上げた。
「その時、フェイスと、フェイスの兄さんが遊んでくれたんだけどさ、ずっと二人で『アドルちゃん』って呼び続けて、その度に訂正するのに、全然取り合ってくれなかったんだよな……」
「ええええ、いつっ!? どこで」
フェイスは大きな目を更に見開いて、アドルに詰め寄る。彼はそれを巧みにかわしながら、にやにやと笑みを浮かべた。
「聖都で久々に会ったら、全然私のこと覚えていないくせに『アドルちゃん』って呼ぶんだからね――抗議する気も失せるよ、流石に」
フェイスの顔が、かっと赤くなった。
「――ぜ、全然覚えていません!」
「私が八つの冬。五日間ほど」
アドルが明確に答えるが、フェイスは顔を真っ赤にしたまま、覚えていないと首を左右に振るばかりだ。
「父にも、兄にも会ったことがあるんですか?」
「うちの父親が誰だか知っているだろう? 少し考えれば、交流があってもおかしくないと分かるはずだ」
「そ、それはそうかもしれませんが……」
アドルが、からからと笑う。
「ほら、覚えていない――昔の記憶なんて、そう言うもんだよ」
実際覚えていない事をつきつけられたフェイスには、そうですね、としか答えようがない。
「そ、そうか、アドルとフェイスは顔見知りだっのか」
狼狽えるフェイスが気の毒になってきたので、エドはアドルの注意をこちらに向けるために口を開いた。
「偶然会った気の合う冒険者って訳じゃなかったんだな」
「ちょっと考えれば、わからないか?」
「そうですね、わかりました」
頷いたのは、フェイスである。顔色は元に戻ったが、悄然としているように見えた。撫でぎみの肩が、更に落ちている。
「王女の『影』であり、公爵家の息子が、どこの馬の骨とも知れない人とパーティを組むなんて、許されませんよね」
「あ、そうか」
フェイスの言葉で納得したエドは、ぽん、と手を打つ。
「その仲間で国を離れ世界を回るとなれば、身元が確かな人じゃなきゃ、フィーネも王も許さないか」
エドは幼馴染。フェイスは顔見知りで、どうやら英雄ガイアと彼女の父は知り合いらしい。彼女が選ばれたのは、父繋がりだろう。
「そういうことだね」
アドルは頷いた。
「なら、姐さんも?」
エドは大柄な少女へと視線を向けた。赤毛の魔法使いは、目を細めて意味ありげに笑っている。
「姐さんはお目付け役だよ」
答えたのは、アドルだ。
「聖都に姐さんがいるって陛下が知ったから、ここぞとばかりに頼み込んだんだ――オストルムの姫巫女様に監視を頼むだなんて、陛下も良い根性をしている」
「――ふぅん……ん?」
今、さらりと凄いこと言わなかったか?
「姫巫女? 誰が?」
「姐さん」
エドは何度も瞬きをして、視線の先にいる魔女を見る。
――姫巫女?
南国オストルムの姫巫女と言えば、この国で言う聖王だ。フラビスで言う国王で、ビリディスで言う帝王だ。つまり、国で一番偉い人だ。
「マジで?」
「知らなかった?」
「知らない」
「知りませんでした」
「フェイスも?」
それは、アドルも知らなかったようだ。
「姐さんの持っている杖、聖杖じゃん。わからなかった?」
「聖杖っ!?」
フェイスがついに叫んだ。彼女の甲高い叫びは、天を貫き大地に響き渡る。
次の瞬間、沢山の視線を感じた。彼女の声に驚いた人達が、一斉にこちらを向いたのだ。
殺気立っているのは、時期が時期だからだろう。そして注目が逸れないのは、彼女の叫びに慣れていないからだ。ここは、馴染み深いギルドではない。
「な、なんでもありません……きゃっ」
フェイスが慌てて立ち上がる。それと同時に、彼女が膝の上に乗せていた道具が飛び散った。彼女は道具整理をしながら、話し込んでいたのだ。
散らばった道具が、目の前の焚き火に突っ込もうとする。その直前に、火が音を立てて消えた。シリィが魔法で消したのだ。エドも驚く早業である。予測していたのか?
惨事は免れたが、突如消えた火と現れた闇は更に周囲の目を引き付ける結果となってしまった。
視線が痛い……
「なんでもないよ。ちょっと身内の話が盛り上がり過ぎただけさ」
闇の中から豊かなアルトが響く。
「迷惑かけたね」
シリィの落ち着き払った言葉に、周囲の視線から緊張と殺気が消えるのがわかった。
「なんだ、雑談か」
「程々にしておけよ」
「明日は決戦なんだから、さっさと寝ろよ」
辺りから気易い声と共に注がれる視線の数が減っていくのがわかる。エドは一つ息を吐いてから、焚き火に火を灯した。
先程よりも更に悄然としてしまったフェイスの姿が、炎の光に浮かび上がった。
「ありがとうございます、シリィ」
シリィはニヒルに笑って答える。
「相変わらず凄いな、姐さんは」
エドも感嘆の声を漏らした。兵士達は、シリィの一言で納得してしまった。彼女の低く深い響きの声には、根拠のない説得力が宿る時がある。
「巫女の力ですか?」
「そうなのか?」
「オストルムの姫巫女様は、神に選ばれし力を持った子だと聞いています。その力とは、このカリスマ性の事なのでは?」
一声で納得させる言霊の持ち主。古今東西の老人を魅了する力。それが姫巫女の力だと言われれば、確かに納得できる。
「そんな大層なもんじゃないよ」
シリィが苦笑を浮かべて答えた。
「根回しさ。暇なときにいろいろ話をして、アンタらより兵士達と仲良くなっていただけだよ」
買いかぶり過ぎは困る、と彼女は言う。
「その力は巫女のモノじゃない。ギルドのバイトで身につけた対人術だよ」
「そうなのですか?」
「ロマンティックな話じゃなくて、悪かったね」
シリィが浮かべる珍しい苦笑理由は、それだった。なので、フェイスがそんなことありませんと微笑んで答えたら、彼女の笑みから苦味が吹き飛んだ。
「ところで、アドルはどこへ行ったんだい?」
思い出したかのようにシリィは言って、きょろきょろと辺りを見回した。そういえば、とフェイスも眼で周囲を探る。
「逃げたぞ」
「え?」
エドは、彼女達が気付いていなかった方が意外だった。
「兵士の視線が飛ぶ前に、一目散に逃げ出した」
理由はわからないでもない。
「あの顔がここに居たら、兵士達が驚くだろうからな」
エド達は両方知っているから良いが、一般の兵士達は、フィーネしか知らない。エド達と一緒にあの顔が焚き火にあたっているのを見付ければ、大騒ぎになることは目に見えている。
そうなる前に逃げ出したアドルの判断は正しい。あの一瞬で判断して行動したのは、流石と言うしかない。
「あ、飯、だいぶ冷めたぞ」
エドは火から降ろしていた鍋を触る。秋の夜は冷え込むから、物が冷めるのも早い。まだ焚き火で暖がまかなえるだけマシだが。
「さっさと握り飯を作って、さっさと寝ようぜ」
エドは外した蓋で、鍋の中身を指し示した。我ながら、上手く炊けている。
フェイスの悲鳴を合図に天幕へ飛び込んだアドルは、布の壁に寄り掛かるようにして座り込んだ。ピンと張られた頑丈な布は、アドルが体重をかけたくらいでは、弛むことすらしない。
ここでの自分は『影』だ。『アドル』として存在しているの姿を見せる訳にはいかない。それでも顔を出したのは、やはり決戦の前夜で、気になったからだ。滅多な事は無いが、万が一はある。その前に、彼らの反応を見ておきたかった。
「えらく豪快に札を切ったね」
天幕の奥から聞こえてきた声に、アドルは顔を上げる。薄暗い天幕の奥で、モーラが足を組んで椅子に座っていた。
「そこまでするほど、避けたい話だったのかい?」
穏やかな口調の中に潜む笑いを見付け、アドルは眉をひそめる。別に、と答えた。
「そんな大層な札じゃない。言わなかっただけで、隠していたわけじゃない」
我ながら、口調が言い訳臭い。だが、嘘ではない。
フェイスの話は、彼女にとって都合が悪いだろうと思ったから言わなかっただけだ。シリィについては、フェイスすら気付いていなかった事に驚いた。あんな真っ赤な杖を堂々と持ち歩いていて、なぜ誰も気づかない?
アドルは顔を上げる。薄く輝くランプの光に浮かび上がったモーラはうっすらと笑っていた。
彼のこの笑みは、アドルの神経に触る。何を言っても受け流されそうな気がして、不快だ。
「用事がないならさっさと寝たら。明日はハードだよ」
立ち上がりながら、吐き捨てる。連れないねぇと言う声が聞こえてきたが、無視した。