小さな大平原 7
ヴァルシリオ・オーロは、抹茶色の髪を風になびかせて、東の空を眺めていた。明るいオレンジ色の瞳を輝かせ、にやりと笑う。
山際を中心に、空が赤く燃えている。天頂は夜空が交じって奇妙な紫色だ。
この地で41の誕生日を迎えた彼は、ピディスの河を越えて、初めて東の空の夕焼けを知った。日没に西の山が燃えるのは当然である。山に太陽が沈んだ後しばらくの間、赤い光が残るのも知っている。しかし、この地は、その赤い光が稜線に沿って延々と伸びている。結果、東の空も赤く染まるのだ。
闇は、東からではない。天頂から訪れる。
それが、ヴァルシリオは慣れなかった。はっきり言って、気持ち悪ささえ感じる。
「将軍、どうしました?」
この戦場で、常に隣りに付いている副官が、馬上のヴァルシリオを見上げた。
息子は国に置いてきた。自分に何かがあったら、残した息子が跡を継ぐだろう。その息子の代わりに連れてきたのが、この青年だ。息子の乳兄弟で、息子の右腕となるために育て上げた男だ。とろんとした目に、覇気というものは見えないのが、ヴァルシリオには不満だった。しかし、息子のたっての願いだったから、このいつも無気力そうな男を、連れてきた。
「煙が……な」
馬上でヴァルシリオは東の空を指し示す。
指し示す先に見えるのは、刻々と夜の帳に覆われて小さくなっていく燃える空。そして、白く伸びる無数の煙。等間隔に立ち上るそれは、かすかに南へとたなびいている。
「多い」
そう言って、にやりと笑った。
「準備をしてやがる」
「準備、ですか?」
眠そうな目で見上げる副官に、あぁ、と頷いた。そして、視線を馬ごと北へ向ける。
赤の色は左右の空より弱いが、まだ山の影がはっきりと見えるくらい空は明るい。ここも、故郷フラビスと同じで、太陽が山へ姿を消してから、空が闇に包まれるまでの時間が長いのだ。
夜空の色なのに明るい空と、黒い影を映す山を背後に佇むのは、灰色の箱――城塞都市だ。名前をセルペンと言ったか。
ヴァルシリオは、目を細めて、箱のような街を見る。
人生の半分以上草原を駆けていた男は、目が良い。その目は、黄昏時でもはっきりと、街の様子を映していた。
「街もいつもより明るい――使いをやって、様子を訪ねて来い」
「城攻め部隊にですね」
「そうだ。出て来そうか、と」
「わかりました」
若い副官は一礼して、駆け出した。移動は迅速に、基本駆け足で、と、それだけを彼には要求して来た。息子の従者を自分の副官として一年。漸く駆け足を覚えたのんびり屋の背中を少しだけ眺めて、ヴァルシオは再び視線を東に移す。
「決戦は明日――と、言うことだな」
ヴァルシリオは、口の端を持ち上げた。
「漸く……漸くだ」
漸く、我が部隊が全力を出せる時が、来た。
ヴァルシリオ・オーロは、フラビス王都で生まれた。
騎士の家庭だが、直接治める領地は持たない。だが、領主の元で働く騎士でもない。南西の地域を治める領主達を統括する上級騎士だ。家は王都にある。土地を治める領主たちが、会いにわざわざ王都までやって来るのだ。
つまり、名門である。
そんな家に生まれたヴァルシリオは、幼いころから王宮を出入りしていた。屈強な騎馬隊にあこがれ、父に敬語で接する部隊長になついた。
父が、騎士であるが、馬に乗り槍を構える人間ではないと知ったのは、十代後半の頃だ。
名門の子供が行く王都の学校を出たヴァルシリオは、父と違う道を進むことを決めた。すなわち、馬に乗り、槍を構える騎士だ。
生まれつき体格に恵まれていた少年は、学生時代、武術や馬術で負けなしだった。王宮の騎士団への入団を希望し、入団試験にあっさり合格した。
その後もとんとん拍子に出世し、30歳を過ぎた頃に、四つある王宮騎士団の、四番目の騎士団長になった。それは、親が期待した道ではなかったが、親の後は兄が継いだので、強く反対されることはなかった。むしろ、騎士団で飛躍的に出世していく息子を、親は喜んでくれた。
自分のやりたいことを存分にでき、それを喜び支えてくれる身内がいる。順風満帆な人生だが、ヴァルシリオに不満がないわけではなかった。
彼が持つ不満。それは、この力を使う機会がないことだ。
ヴァルシリオは、草原を走りながら、ちらりと後ろを見る。自分を中心に一つの塊となった騎馬は、足音すら揃えて草原を疾走している。彼が馬の歩を緩めれば、続く騎馬も歩を緩める。彼が止まれば、ぴたりと止まる。一心同体の軍団。その数、最大で二千。
ヴァルシリオが無言で槍を掲げる。その掲げ方に応じて、無言で数千もの軍団は陣を変える。掲げた槍を脇に構えれば、全員が同じ格好をする。
「突撃ぃーーーっ!」
ヴァルシリオの声が甲高く空へと響く。それと同時に自らの騎馬を蹴れば、同じ速度ですべての騎馬が走り出す。今までの比ではない速度で、今までにない気迫で。
しかし、その先には何もいない。
大陸最強と呼ばれる騎馬隊の中でも最も強いと言われている二千は、草原を空しく突進し、そして止まる。
この大規模な騎馬隊に、敵などいない。
最強であるために訓練を続けているが、最強であるから使われない。
宝の持ち腐れだ。
ヴァルシリオには、不満があった。
自分の持つ、最強の騎馬隊の力を、思う存分発揮する場所が無い、と言う不満が。
その不満を解消されるような命令が、ヴァルシリオ率いる第四騎士団に下されたのは、草原の色が褪せ始めた季節だった。
全部で四つしかない国王直属の騎士団。その一つの団長であれば、王を交えた会議に出席する義務も生じる。ヴァルシリオは椅子に座っているよりも、馬に座っている方が好きだったが、立場上、欠席するわけにはいかなかった。
その日も、退屈で、いらいらする会議に、出席していた。
「さて、命令が一つ」
一通りの議題が終了したとき、王がそう切り出した。
「カルーラを攻める」
「え?」
一応騎士だが王宮で内向きの仕事をする文官が、目を真ん丸にして、声を上げた。
「ピディス河の北の大地を、我が国のものとし、ピディスの利水権を手に入れよ」
「お、王っ! それはなりません」
先代の時から仕えている第一騎士団長が即座に反対した。それに、文官と第二騎士団長が続く。
「なぜ、カルーラを攻める必要があるのです」
「今まで、何も困ったことなどなかったではありませんか。カルーラとの親交を断ってまでやる利点はありません!」
「命令だと言った」
ぴしゃりとした声が、すべての言葉を封じた。闇では光って見えると言われる金の瞳が、ぎろりと睨む。
「ヴァルシリオ」
「はっ!」
名を呼ばれて、ヴァルシリオは飛び上がった。心臓の音が聞こえる。手に汗をかいているのが分かった。
「貴様の軍の全てを使い、ピディスの向こう岸を攻めよ」
「ははっ!」
「王っ! お考え直しくださいっ!!」
王の命令と言う言葉を聞いても、なお悲鳴のような声を出すのは、文官の最高位に着く宰相だ。他の者は、もう反対の声を上げず、じっとうつむいている。
「まだ言うか、貴様っ!! これ以上言うならばっ!」
ぎろりと金の視線が宰相を射る。
「も、申し訳ございません」
宰相は、ほかの文官や軍団長と同じ表情を浮かべ、黙り込んだ。
机上にいる黙り込んだ者たちを見回し、王は満足そうにうなずく。そして、直立不動のヴァルシリオへ、王は視線を向けた。
「ヴァルシリオ、よいな?」
「御意のままに」
ヴァルシリオは慇懃に一礼した。
鼓動が高鳴る。手を握り締めると汗をかいているのが分かった。表情を必死に抑え、従順な態度をとるので精いっぱいだ。
他のものと違い、王へ意見ができない怒りでは決してない。彼は、王の意見に反対する気が、そもそもない。
ヴァルシリオは、喜びに震えていた。
やっと……やっと、俺の最強の騎馬隊の力を発揮することができる!
解散した瞬間、ヴァルシリオは駆け出した。
そうと決まれば、行動は早い。なにせ、ずっと待ち望んでいた機会なのだ。
カルーラは、船の技術で有名だ。大陸の中央にある巨大な湖、ラクスラーマを自在に運転できるのも、ピディスの河を遡上できるのも、カルーラの船だけだ。水の魔物と対等に勝負できるのも、カルーラの水軍ぐらいだろう。
また、陸の上では、個々の技術が高いとも言われている。彼らは騎馬を駆る習慣はない。だが、剣を使い、一人で魔物と戦うことができる程度の武力を全員が持っているらしい。
さすがにそれは誇張だろうが……期待ができるのは、確かだ。この、最強の騎馬隊をぶつけるに値する戦力を持つ相手である、と。
ヴァルシリオは、後方支援を命じられている第三軍に、まず移動式の橋を作るように命じた。
王都で移動可能な橋を用意し、闇に乗じてピディス河川敷に移動し設置する。一晩で橋を作らなくては、恐ろしいカルーラの水軍が気付くだろう。
この季節、ピディス河の水量は少ない。橋は難なく架けられた。
日が昇ると同時に、第四軍を構成する五つ部隊のうちの一つ、四百騎が、掛けられた橋を使い渡河を開始した。
長年の良好な関係が油断を作ったのだろう。ピディス河沿いに、カルーラの軍隊は皆無だった。一番恐れていた船すらいない。
最初にヴァルシリオ自慢の騎馬隊を見つけたのは、畑の収穫に早朝から働いていた農民達だった。彼らは驚いて、一目散に逃げ出す。それを、四百の騎兵は四十騎づつ、十の塊となり、追いつかない程度の速度で、丸腰の彼らを追い立てた。農民たちは、北にある壁に囲まれた街へと逃げて行く。おそらくそれが、この平野を治める領主のいる街なのだろう。
最初の部隊は、収穫の喜びにあふれたカルーラの民を恐怖へおとしいれた後、西へと進んだ。西の山裾に街があることを、彼らは知っていた。ピディス河の向こうから、それが見えていたからだ。
第一部隊がカルーラの小さな平野を踏み荒らしている間に、二つの部隊が橋を渡っている。
一つは東へ、一つは北へと走った。そこに、大きな街がある。そこさえ抑えれば、点在する小さな村など、どうにでもなる。
城を包囲するのに、四百の兵は少なすぎるが、奇襲となると話は別だ。数より機動力を必要とする。
突然の騎馬の襲撃で、平野の果て、ピディス河下流にある東の街は、あっという間に占拠できた。何の警戒もなく開け放たれていた門を騎馬で駆け抜け、わかりやすい位置にある領主の城を襲撃する。執務室で仕事の準備をしていた領主の首をとるのは、あまりに簡単で、全く面白くなかったと、功績者はヴァルシリオに言った。
三番目に渡河した部隊が攻めた北の街は、立派な城塞都市だった。それは、すでに最初の襲撃により逃げ帰った農民たちを収容し、固く門扉を閉ざしていた。この都市の主は、籠城戦を選んだのである。
一番最初に攻めた西の街は、聖都に近いだけあって、すぐに追い出されてしまった。
扉のない門から街へ入ったのは良いが、門のすぐ横にあるギルドから、冒険者が出てきて応戦を始めたのだ。彼らは戦闘経験が豊富だ。騎馬との戦いが初めてでも、すぐに対処してきた。馬の足を狙い、無力化を狙ってきた。
街が、小さく森ばかりだったのも、騎馬隊にとって不利だった。狭い場所では、騎馬の能力をすべて発揮することはできない。歩兵の冒険者や、騒ぎを聞いて飛び出したカルーラの兵士に分があった。
西の街へ奇襲を行った部隊長は、いったん体勢を整えるために兵を退いた。だが、それが、失敗だった。再び攻めようとしたときには、すでに多数の兵士が、彼らを待ち構えていたのだ。
残りの二部隊とともに悠然とカルーラへと侵入したヴァルシリオは、顛末を聞いて、東の部隊の半分を北へと送り、一緒に渡河した二つ部隊はすべて西へと向けた。一番戦況が悪いのが西であり、これから激戦となるのも西であることは、明白だからだ。
なぜなら、カルーラの主力は、すべて、西から来る。平野の東の果ては大陸の果てだし、北は山岳地帯だ。重なり合う山が少しずつ高くなり、ルクシス山脈へと至る。
ヴァルシリオは、西の街の前で攻めあぐねている部隊を、全体的に下げ、残りの部隊もそこに集めた。東西に長い平野のおよそ半ば、橋を架けた場所より少し西側に本陣の幕を張る。そこを最終ラインとして、西に陣を展開した。
東の街と、陣との間に平野が広がる。
ヴァルシリオの方針は明確だった。
戦は、フラビスの騎馬が得意とする平野で行う。
そして、カルーラの兵を、最強の騎馬隊で完膚なきまでに蹴散らす。
この地をフラビスのものにするには、平野に存在する三つの大きな街を完全に支配下に置く以上に、抵抗してきたカルーラ軍を蹴散らす必要がある。
ヴァルシリオはそう信じて疑っていない。
陣を張って数日後、西の街の前に、青色の人だかりが見え始めた。カルーラ軍の増援が西の峠を越えて来たのだ。敵軍は街の前に陣を張り、平野を挟んでフラビスの騎馬隊と対峙する。
両者の間にある平野に、戦の張り詰めた空気が漂い出したのを感じて、ヴァルシリオは獲物を前にした肉食獣のように唇をなめた。
決戦の時が来た。
ヴァルシリオは、確信した。
しかし、その確信は外れることになる。
カルーラ軍は、平野の端に陣を張ったまま、大きな動きを見せないのだ。挑発目的で攻めれば応戦はしてくる。向こうからも挑発じみたちょっかいをかけてくる。しかし、一定のラインから先には決して攻めてこなかった。
最初の奇襲で、東の街は支配下になった。一番警戒していたピディス河の利水権は、最初の奇襲で得ている。が、北の街は固く扉を閉ざしてしまい、いつまでも落ちない。西方で対峙した敵軍は、攻めてこない。
事態は膠着したまま、1年が過ぎようとしていた。
どちらかと言えば短気なヴァルシリオは、日が経つにつれ機嫌が悪くなっていく。同時に、全く進展のない戦場に飽きてきてもいた。
なにより、この平野を騎馬で駆り、カルーラの精強な歩兵を蹴散らす機会がやってこない事に、いらだっていた。
そんな中で見せた、初めてのカルーラ側の変化だ。
ヴァルシリオは目を輝かせて、部隊長へ命令を出し始めた。
きりっと冷たい空気の朝だった。日に日に賑やかな色になっていく北の山が、いつも以上に迫って見える。これが冬の空気だと言うことを、一年この地にいたフラビス軍は知っていた。冬の天気を思わせる、山からの颪が冷たい。
夜明けよりも遅くに昇る太陽が、シャフロンの平野を照らす時、平野の果てに、青い軍隊が現れた。
「予想どおりっ!」
ヴァルシリオは、オレンジ色の瞳を輝かせて手を打つ。
物見からの報告によれば、カルーラ軍は、整然とした足取りで、平野へ出て来たらしい。四角く固まった陣形が三つ。こちらからは見えないが、後方にも控えているかもしれない。左右よりは、中央の方が大きく、厚い。よくある陣形だ。
「出撃だ!」
ヴァルシリオは吠える。それだけで十分だ。打ち合わせは昨晩のうちにすませてある。訓練は欠かしていない。彼の一言で、この軍団は、自在に動く。
ヴァルシリオが騎乗して立った場所を中心に、騎馬が並ぶ。他の街の支配やセルペンの攻略でいない二部隊八百を除いた全部隊だ。多少の増減はあるが数はおよそ千二百。これに対抗するには、その倍の歩兵では足りないだろう。
カルーラは、秋に入ってから沢山の兵を集めていたようだが、この騎馬隊が全力を出すに値する兵力をかき集めることができただろうか。最後の間諜の報告によれば、二千人くらいいそうだ、と言う話だったが。
その間諜達からの連絡は、昨晩から途絶えていた。当然だろう、決戦直前まで敵を陣内で飼っておく必要はない。帰って来ない自軍の間諜は、おそらく始末されたのであろう。こちらも、向こう側の間諜を昨晩のうちにすべて始末しようとしたが、泳がせていた間諜達はすでにいなかった。小賢しい奴らだ。
相手の間諜を逃したのは残念だが、フラビス軍にとって、痛くもかゆくもない。
理由は簡単だ。
圧倒的な破壊力を前に、情報など、小細工など、無意味だからだ。
「行くぞ」
深い声で、静かに告げる。
彼の周囲にいた騎士が、その声を拾って吠える。ヴァルシリオの周辺から、全体へと雄叫びが広がった。
ヴァルシリオはにやりと笑う。
「押し潰せ!」
そう吠える声が、あちこちから聞こえる。
そう、ただ、力で押し潰すだけ。
千を超える騎馬が、駆け出した。
「突撃ぃーーっ」
ヴァルシリオの声が草原に響く。
しかし、その声は即座に掻き消された。大地を揺るがす馬蹄の音によって。
合計二千四百の人馬が一塊になって駆ける。しかし、ただの塊ではない。千二百の意志を持ち、千二百の目的を持った、それでも、一つの塊だ。
平野に広がるカルーラ軍へ、ヴァルシリオの千二百の手足が正面からぶつかる。歩兵のみで編成された藍色の敵軍は、あっけないほど簡単に崩れた。
崩れた陣の奥にもう一軍いるのを、ヴァルシリオは見る。おそらく、あそこが本隊だ。
中央の陣が騎馬隊によって崩れると同時に、無傷の両翼が前進を始めた。簡単に崩れたように見えた中央の陣は、突撃を吸収するかのように、あえて後退したのかもしれない。自軍の攻撃力と敵軍の崩れ方の見事さの割には、向こうの損害が少なすぎる。
中央が退き、左右が前進する。この動きを見れば、意図は明白だ。突っ込んできたフラビス軍を、左右から取り囲もうとしているのだろう。左右の陣が背後で合流すれば、ヴァルシリオの騎馬隊は、カルーラ軍に包囲される。
しかし、所詮それらの動きは人の足によるものだ。
カルーラの軍へ正面から突撃したフラビスの騎馬隊は、ヴァルシリオの合図を待つまでもなく、きびすを返した。回れ右をするわけではない。騎馬は、人のように簡単に反転できないのだ。真っ正面から激突したと言っても、正確には違う。突撃の軌跡は、正面の軍をえぐるように、大きくUの字を描く。
激突した、と向こうが思っている時には、すでに騎馬隊は転身し始めているのだ。
騎馬隊は、一つの塊のまま、敵陣が反撃をする間もなく離脱する。
カルーラの鈍足な歩兵は、騎馬隊を包囲する暇もなかった。
歩兵は追いつけないが、騎馬兵が再突撃するには問題ない距離まで退いたヴァルシリオは、ゆっくりと半円を描く。先頭の彼に従って、一つの塊はゆっくりと弧を描き、再びカルーラ軍と正対した。
軍団長が歩を止めれば、全ての騎兵がぴたりと止まる。隊列を乱さぬまま突撃し、反転し、再び位置に着く自軍を満足そうに眺めてから、ヴァルシリオは敵陣へと視線を向けた。
平野の先で、藍色の群れが右往左往しているのが、見える。
作戦が全く思うようにいかなくて、混乱しているのだろう。左右の陣が、馬鹿の一つ覚えのように中央へ寄る。フラビス軍がいたであろう場所を囲むように。
「しかし、思ったより残ったな」
ヴァルシリオは、藍色の群れを眺めてつぶやく。
「向こうがわざと退いたからでしょう」
若い副官が彼の言葉を聞いて答えた。相変わらず眠そうな顔だ。
「そうだとしても、この突撃であの程度の損害とはな」
ヴァルシリオはくつくつと笑う。流石、個々の持つ武力では四国最高と言われるカルーラ軍なだけはある。面白い。
「もう一撃いくぞ」
ヴァルシリオは手綱を握り直して、槍を掲げた。即座に反応した騎士が、再び突撃の態勢となる。
現在、こちらの損害はゼロ。向こうは予想より軽微と言っても、それなりだ。あと、二、三回突けば、本陣に到達するだろう。
「構えっ!」
ヴァルシリオの声で、一斉に騎馬兵は槍を構える。
「突撃ぃーーっ」
再び、ヴァルシリオの声が草原に響いた。
二度の突撃でも、カルーラ軍は瓦解しなかった。当然、総大将がいるであろう軍までも届いていない。
「流石だ」
流石と言うしかない。
ヴァルシリオは、強敵に出会えたことに喜びを感じていた。
最強の軍団による、最強の攻撃を二度も受け止めることができる敵がいることが、幸せだった。
「だが」
大きな楕円を描いて、二度目の突撃を終えたフラビス軍は、再びカルーラ軍と正対した。
「三度受け止めることが出来るかな?」
にやりと笑って、視線を前へと向ける。視線の先にあるカルーラ軍は、混乱しながらもなんとか形を保っていた。
「ヴァルシリオ様」
確かに彼の横にぴったりとついて戦っている副官が、相変わらず眠そうな顔で主の名を呼んだ。
「後退しています」
「そりゃ、そうだろう」
自分たちの攻撃に、恐れをなして下がるのは、恥でもない。仕方がないことだ。
「いや違います」
「違う?」
「オレ達が、後退しているんです」
「何?」
指摘されて、ヴァルシリオは周囲を見回す。左手にピディス河。右手に名を知らぬカルーラの山脈。そして、灰色の箱のような街、セルペン。
「なんだと……」
気付いた。
右手はるか後方にあったはずのセルペンが、間近に迫っている事に。セルペンを囲んでいる一軍の動きが分かるほど、近くに来ている。なにか、門の前で動きがあったようだ。そこまで分かる距離だ。
「なぜ」
「左右の陣でしょうか? 突撃が終わるたびに、前に出ていた」
「あぁ、なるほど」
副官の言葉で、すぐに腑に落ちた。
カルーラ軍は、つねにフラビス軍を取り囲もうとしていた。中央の陣に突撃させ、その間に左右が背後をねらう。しかし、騎馬隊の機動力は圧倒的で、彼らが背後に回る前に、包囲から抜け出している。しかし、フラビスの背後に回るということは、結果的にフラビス側に進むことになっていたのだ。
対して、フラビス軍は突撃の為に、敵陣との間に一定以上の距離が必要だ。だから、カルーラ軍が前進した分、後退する必要が生じるのだ。
「しかし、こちら側に寄ればよいという訳じゃないだろう」
ヴァルシリオはにやりと笑う。それに気付かなかった、と言うのは悔しいが、結果としては望むものとなっている。戦場が東に移動して来たと言うのは、平野の真ん中に出て来た、と言うことだ。
フラビスの騎馬隊は、広大な大地であればあるほどその真価を発揮する。山の迫った平野の西端よりも、こちらの方が戦い易い。
カルーラの軍隊は、自ら死地へと踏み出したのだ。
ヴァルシリオは舌なめずりをして、手綱を引いた。
フラビス王国軍第四軍団長は、攻撃の際、一番前の中央に位置する。
大将が最前列にいるとは、と非難する者は他の軍団の者たちだけだ。第四軍団に、彼が最前列にいることを止める者はいない。
彼らにとっては、そんな大将が誇りだからだ。
第四軍団長は、先頭で全軍を指揮し、誰よりも早く敵を槍で倒す。今回も例外ではない。
ヴァルシリオは三度目の突撃の合図をし、最初に駆けだした。その後を、四千八百の足音が続く。彼を先頭にし、彼の軌跡をたどり騎馬が疾駆すると、そのあとには何も残らない。
――筈なのだ。
突撃を開始してすぐに、ヴァルシリオは違和感を覚えて歩を緩めた。
訓練された騎馬隊は、隊長の突然の減速にも柔軟に対応する。彼と同じ列にいるもの、すぐ後ろを付いて来たものは、すぐに減速した。
減速しつつも、人の足より速い速度で走りながら、ヴァルシリオは振り返る。彼が背後を気にしている事を悟った周囲の騎士が、同じく背後へ視線を向け――彼らは表情を凍らせた。
彼らが見た風景は、小さな平野だった。
フラビスの騎馬によって、踏み荒らされ、均された田畑だ。一年作付けを行わなかったせいで、畦も田畑も関係なく枯れた草で覆われた平原だ。その風景は、彼らにとって馴染み深い、フラビスの草原に似ていたが、それでも確かに、そこは、彼らがついさっきも踏み荒らした、田畑だった。
そして、それは前列に居る者が後方を振り返った時に見えるはずのない光景だった。
「こ、後続は……」
ヴァルシリオは、自分の声が上擦っているのを自覚した。
「後続はどうした!」
前線を行く軍団長の、ヒステリックな叫びと同時に、平野の向こうから喚声が上がった。まるで、彼の声に呼応するかのように。
しかし、それは彼が求めない声だった。
フラビスの騎馬隊は、完璧にその足を止めていた。
彼らの目に、喚声をあげる敵兵が映る。前、後ろ、そして右手。北にそびえる山から、そして東の山から、藍色の軍服を着てない大量の戦士が現れたのだ。
「伏兵っ!?」
いきなり現れた軍団に驚いて、ヴァルシリオは叫んだ。
だが、その驚愕もすぐに収まる。千二百の軍団を囲むには、数が足りなかったのだろう。平野の半分を囲むように現れた陣は、薄い。どこを突いても一度で蹴散らすことができる。
「焦るな! 後軍は東へ突撃。我らは西だ!」
良く通る声で指示を出し、槍を掲げる。雲のない青い空に、銀色の穂先が光る。
その空に、赤い光が飛んでいた。