渓谷の街 10
激しすぎる感情が理性を飲み込み、その人自身を飲み込んだ挙句、魔物となることがある。ちょっと感情が高ぶりすぎた、ただそれだけの事で取り返しのつかないことになる。それが、魔王のいるこの世界だ。
その正体が、人なのか、感情そのものなのか、それは分からない。分かっているのは、この手の魔物はほぼ例外なく魔力を持つ鳴き声――泣き声かもしれない――を上げる、と言う事だ。
力のある鳴き声は、それが持つ唯一の感情を周りへ伝染させる。それが悲しみであるならば、悲鳴を聞いたものは、今まで自分が感じたもっとも悲しい出来事を思い出す。その時の悲しみの感情が沸き上がってくる。魔物の鳴き声によって沸き起こった感情に飲み込まれ、同じ魔物になる者も少なくない。そうやって増えた魔物たちの鳴き声は共鳴しあい、更に大きく、広く、強くなる。
そうなる前に、大元を断たなくてはいけない。
この手の魔物に対応する簡単な方法を、エドは知っている。それは、『和』の外に出てしまった音を使って『和』を奏でる事だ。
どんな音にも『和』を成す音は存在する。それは、魔物の悲鳴も例外ではないのだ。実際、エド達はその手法で魔物の悲鳴を無力化した実績がある。鳴き声を無力化すれば、この手の魔物はどうとでも対処が出来た。
この手法は、自分達の十八番とも言えた。
しかし、魔物の鳴き声に対処するのも一筋縄ではいかない。和を成すための最初の一音を出には、まず自身が相手の鳴き声に打ち勝つ必要があるからだ。
たとえば、強固な意志、強すぎる理性。そして、鈍すぎる感性が。
ナタリーの声により、エドは闇の中に叩き落とされたような感覚を味わった。
人によっては、その感情が生まれた時の出来事を追体験するらしいが、エドの場合大体こうだ。漠然とした感覚だけが蘇る。いつか、どこかで、こんな思いを抱いたらしいが、それがいつ、どこでなのかが分からない。ただ、これが絶望だという事を知る。ぽっかり空いた闇の中に、ありとあらゆる負の感情が吸い込まれていくような感覚だ。ただ、ただ辛くて、叫んで、暴れたくなる。
――しまった。やりすぎた。
そこに、間違えようもない声が割り込んできた。一条の光の様に。
いつもそうだ。この手の魔法にかかった自分を現実に戻すのは、この声だ。
――エド。
その声が、自分の名前を呼ぶ。
――歌え。
冷静を通り越して冷淡とも感じられる命令形の言葉。それだけで、世界が元に戻った。
泣き叫ぶ女の魔物。倒れたままの領主。駆け出したはいいが、辿り着けずに座り込んでしまった甥と許嫁。歴戦の冒険者達も似たような状態だ。
ただ一人、アドルだけが真っ直ぐ立っている。静かな湖のような瞳が、エドを見た。
「……了解」
小声で呟いて、エドは立ち上がった。そして、その音に最もふさわしい音を出す。
ナタリーの突き刺すような高い声は、ソプラノのそれ。和を成すのに必要な音は、それを支える重低音だ。エドは上手く、そっと音を滑り込ませる。どの音を出せば良いのかは、感覚が知っていた。
予想通り、エドが加えた音により、天地を突き刺すようなソプラノは、角が取れ、厚みと丸みが出来た。
「姐さん」
アドルの指示が飛ぶ。一拍おいて聞こえた、あいよ、と言う気怠げな返事の後に、もう一つ音が加わった。ソプラノとバスの間を繋ぐ、おおらかなアルトだ。
その三音で、あっさり『和』の音が完成した。直後に、厨房にいた人々が我に返り始める。
アドルが、彼の『今の』仲間の元へと駆けていった。
誰もが傷ついた表情を浮かべている。
大小関係なく、人は誰もが絶望を知っている。この感情は、魔に引きずり出されやすく、一刻も早い対応が必要だった。
幸いな事に、その声に飲み込まれたものは今のところいない様だ。アドルと同い年の少女の様子が気になるが、まだ知り合いでもない自分にできることは、ここで歌い続けて、絶望の音を中和する事だけだ。それに、あのフェイスと、恋人のベルドがいれば、大丈夫だろう。
エドは、開いてしまった心の傷が出来る限り早く癒されるように、祈りながら歌う。エドには呪文を扱う才能はなかったけれど、歌に思いを乗せることはできたから。
エド達の歌の中で、ベルドが立ち上がった。彼は、恋人の元へと駆けより、そこにいたフェイスとなにやら怒鳴りあった後、背筋を真っ直ぐに伸ばして、再び立ち上がる。
彼がほのかな殺気を放ちながら見据えるのは、一人の料理人。彼が噂どおり一流の冒険者なら、厨房に入ってすぐに気付いた筈だ。
この厨房に、人がいない、という事を。
最も背の高いコック帽をかぶった男、それは人ではなかった。ベルドに見据えられ、男は正体を現す。この手の魔物に多い、自分の自慢とする箇所が異様に誇大された姿に。この魔物の場合、それは柔らかで絶妙のバランスを持った容貌と、極限まで鍛え上げられた肉体の様だ。
しかし、料理長は直接手を下さない。部下を従える魔物の例に漏れず、それは周りの部下達に攻撃を命じた。
そこからは見物だった。
八方から魔物が襲い掛かる。ボスを持つ魔物は、他の物に比べて統率が取れているのが、一般的だ。統率の度合いには、一つの意志しか持たない集団から、それぞれが何となく同じ方向を向いているだけの集団まで、様々だ。この魔物達は、冒険者のパーティ程度のまとまりがあった。つまり、それぞれの獲物を持って、互いに邪魔をしない程度にばらばらに襲いかかってくる。
敵の攻撃に合わせて、青緑の髪が揺れた。ベルドは頭を簡単にすくい上げてしまいそうな大きさのお玉を、首を傾けるだけの最小限の動きでかわす。続いて襲ってきた腕くらいの太さの麺棒は、敵の勢いをうまく受け流しながら、片手で絡め取った。敵に、相手に掴まれた麺棒を手から離すという選択肢を与える間もなく、ベルドはそれを両手に持ち替えて、思いっきり突き出す。麺棒の持ち主は思わぬ方向から加えられた力にバランスを崩し、麺棒から手を放して尻もちをつく。一方麺棒は、それの背後から襲いかかろうとした、フォークとナイフの二刀流の腹に食い込み、そのままベルドの手を飛び出した。
麺棒から手を放したベルドは更に体を低くする。彼の頭上を巨大なまな板が横切った。逃げ遅れた数本の髪が千切れ飛ぶ。それと同時に、まな板もあらぬ方向へと飛んだ。しゃがむと同時に、ベルドは片足を鞭のようにしならせて相手の足を払ったのだ。いや、払ったとかいう生易しいものではない。確実に脛と膝を砕いている。あれは痛そうだ、とエドは思わず顔をしかめた。
一方、敵の手から離れたまな板は、偶然か、意図してか、悠然と様子を見ている色男の方へと飛んだ。勢いよく飛んできたまな板を、ボスはまともに受ける。だが、びくともしない。真っ赤な唇は、薄い笑みすら浮かべていた。あの隆々とした筋肉は伊達ではないのだ。
そんなボスを一瞥もせずに、ベルドは襲い来る手下たちを軽快にあしらう。その姿は、戦っていると言うよりも、魔物と戯れているかのようだ。エドは、必死に自分の役目を言い聞かせながら、その光景を見ていた。そうしないと、ベルドの流麗とも言える動きに魅入られて、やっている事を忘れてしまいそうだったからだ。
「うわっ。噂以上に凄いや」
……暢気に魅入っている者がいた。
エドは、心の中で怒鳴る。歌を止めるわけにはいかないからだ。代わりに、一人暢気に見物している男を睨みつける。
「…………わかってるよ」
睨みつけられた男――アドルは、エドの無言の怒鳴り声に気付いてくれたらしい。しぶしぶと言った様子で、向き直った。彼の傍らには、倒れたまま動かない領主と、駆けつけたフロランとローゼがいる。アドルは彼らに大丈夫だ、と一度大きくうなずいて、ナタリーに笑みを向けた。
エドは、アドルが何をしようとしているかわかっている。
冒険者の仲間として二年、幼馴染としては何倍以上の付き合いがある奴だ。打ち合わせが無くても、そのくらい分かる。
「ヒオリ!」
何度目かの、恋人を呼ぶ男の声。
「ベルド!」
その声に、初めて答えが返ってきた。フェイスの傍らで、真紅の隻眼に意志の光を持った少女が仁王立ちをしている。
それを合図に、アドルが歌い始めた。ナタリーとシリィ、そしてエドの奏でる和音を伴奏として。
曲は、なぜか子守歌だった。
少女は、恋人の声によって目覚めた――
これを物語にするなら、その一文を絶対入れよう。そう決意してフェイスはヒオリと一緒に立ち上がる。ヒオリを悪夢から呼び起こすのに、心を鎮める効果のある呪文と、覚醒を促す呪文を組み合わせて唱えたが、予想以上に彼女は元気に目覚めた。絶対ベルドの声のおかげだ。根拠はないが、そっちの方が絶対良い。
フェイスは湧き出る笑みを必死に抑えながら、戦況を確認する。ベルドは、流れるような動きだが、『踊るような』とは表現が出来ない不思議な動きをする。敢えて例えるのならば、獣のそれに近い動きは、獣よりも何倍も洗練されていた。
彼の独特の動きは見ていて楽しいが、サポートするのには向かなかった。フェイスは、途切れることのないベルドと魔物の戦いに、どう横槍を入れるべきか、迷って立ち尽くす。同じ不規則な動きでも、エドの体術を援護する方がよっぽど簡単だ。
一方ヒオリは、長い袖の中に隠していた篭手を腕に素早く付けた。ドレスを着つけているときに、万が一のために隠し持っておけと言っておいたが、その通りにしてくれたらしい。
武器を装備し、彼女は躊躇なく魔法を放つ。
彼女はここでは珍しい、道具を使って魔法を展開する魔法使いだった。歌が無いのが、ちょっと残念だとフェイスは思う。きっと、可愛らしいソプラノか、メゾを奏でてくれるだろうに。
ヒオリの放った魔法は、ちりちりと火花を飛ばしながら、床を走る。雷の魔法ではない。炎の魔法でもない。ベルドが飛び上がるタイミングに合わせて放たれたそれは、氷の魔法だった。あまりにも冷たくて、逆に火花が散っていたのだ。
尋常ではない冷気に襲われた魔物たちの足は、一瞬にして凍りつく。冷気が通り過ぎた直後に、飛んでいたベルドが凍りついた床に着地し、そのまま低い位置で回し蹴りを放った。凍りついた為によく滑るようになった床のお陰で、その回転速度は凄まじいものだ。魔物たちは、自分の持つ調理器具と同じような材質になっているのだろう、木が折れる様な音をたてて、凍りついた足が砕けた。ベルドは、倒れ込んだ魔物の一体から、巨大化したナイフ――一番普通の人間が扱いやすい形態の武器――を奪い取る。それで彼は、躊躇なく魔物たちにとどめを刺していった。
ヒオリが再び動く。
今度はフェイスの目にもはっきりとわかった。炎の魔法である。
ヒオリが一言も声を掛けないのに、ベルドはそれを察して飛び上がった。彼のいた場所を含めた七匹の魔物がいる場所を、炎が舐める。すでに事切れている魔物も、ベルドがとどめを刺し損ねた魔物も等しく焼かれていった。まだ生きていた魔物の断末魔が、室内に響く。エドたちの奏でる和音がかき消される。
ベルドは空中で一回転して、ヒオリのすぐ前に着地した。
彼は、彼女に背を向けたまま、ナイフを持っていない手で彼女の頭をなでる。ヒオリが、えへへ、と嬉しそうに笑い声をあげた。
同時に、どこからともなく数々の壊れた食器が床に落ちる。金属のヒステリックな音や、陶器が割れる音が、厨房に響いた。料理長の部下である魔物の正体は、様々な種類の食器だった。
一連の光景を見て、フェイスは大きな溜息を吐く。
眼福である。
これが見たかったのだ。
声も、視線も交わさずして息の合った動きをする夫婦。多勢に対しても圧倒的な強さを誇るコンビネーション。
そして、終わった後の、この、デレデレした様子。
今回、フェイスは『四重唱』の中に入れない。なぜなら、フェイスが入るとソプラノが強すぎてハーモニーにならないからだ。
だから、この夫婦のフォローを任された。
しかし二人の間に、フォローなど要らない。精神的にも、肉体的にも、戦力的にも。そもそも、あんな人のフォローを初見でできるわけがない。
これは、この二人じゃないと無理だ。
そして、幸せだと思う。
そんな二人の戦いを、一人、のんびりと眺めることが出来たことが。
気が付けば、アドルの歌が始まっていた。
彼が選んだ曲は、単調だが柔らかな三拍子の子守唄だ。
ねむれ ねむれ 父の腕に
ねむれ ねむれ 可愛い子
「ヒオリ、助かった」
ベルドが優しい笑みをヒオリに向ける。
「正直、ちょっときつかった。なんていうか……しばらく料理したくねぇって思える程度に」
確かに、自分の頭を掬い取ろうとするお玉や、テーブルクロスよりも薄く引き伸ばしそうな勢いの麺棒には襲われたくない。ギザギザのパン切り包丁や、金おろしは何の拷問かと叫びたくなるだろう。
日用品を武器にされると、意外に精神的なダメージを受けるのだと知る。
「大丈夫だよ。ベルドが料理できなかったら、僕が頑張るから」
「……そうだな」
ベルドはベテラン冒険者なだけに自炊くらい難なくできるのだろう。では、ヒオリはどうなのだろう。料理音痴だけど頑張っていて、犠牲者のベルドは優しすぎて、美味しくなくてもひきつった笑顔でおいしいよって答える――とかだったら素敵だ。
「――ま、その夢も」
「あの人倒せば見ないかな?」
フェイスの空想などお構いなしに、二人は同じような表情で残った魔物へと視線を向ける。
残念すぎるバランスの魔物が、ゆっくりと動き出した。深紅の唇が笑みの形から静かに開かれた。
「良くぞ、僕の手下を倒し――――グッ!」
口上をすべて聞かず、ヒオリが氷塊を飛ばす。ラスボスと言う役目に酔っていたらしいナルシストな魔物は、氷塊をもろに顎に受け、呻いた。もしかしたら、舌を噛んだかもしれない。
「お……お前らぁっ!」
体勢を整えて、白磁の肌を真っ赤にして怒鳴る魔物に、今度は容赦ない蹴りが飛ぶ。最初の回し蹴りとは比べ物にならない程の強烈な一撃だ。何らかの呪文で強化したのだろうか。
「長々と付き合う気はないんだよ」
ベルドはそう言って、音を立てて食器棚にぶつかった魔物に向かって、手に持った長剣サイズのナイフを一閃した。
「もうすぐ、パーティが始まるじゃないか」
確かに、そろそろ始まる時間だ。
だけど、だけど、なんだろう。ビジネスライクなのは素晴らしいのだけれど。もう少し、こう、情緒と言うか、雰囲気と言うか。
せめて、敵の口上くらいは聞いてあげてもいいのではないだろうか……
「……そんな、酷い」
その一言を残して、魔物はあるべき姿へと戻った。
二人の圧倒的な――多分、愛の――力で、あっけなく倒されたボスに、フェイスは多分に同情してしまう。
「え?」
ヒオリが、驚きの声を上げる。
「なんで……」
ベルドが困惑の声を上げて、倒したばかりの魔物の元へと駆けていった。
どうしました? とフェイスも二人の元へと駆け寄る。
「あぁ……」
そして、大きく息を吐いた。
お星さまは きらきらと
夢の歌を かなでるよ
お月様は きらきらと
夢の国へ いざなうよ
「お父さん」
伸ばした先に、必ず手があった。
「お母さん」
両手は、望めばいつでも温かな二種類の手を得ることが出来た。
「お誕生日プレゼント」
いつだっただろうか。そう言って差し出したグラスを、父は驚いた顔をして受け取った。
「これは?」
「凄い綺麗な細工でしょう。ナタリーが彫ったのよ」
まるで自分の事のように、母が自慢する。
「ナタリーが?」
父が、目を真ん丸にして、カットグラスと自分とを交互に見る。
「私ももらったのよ」
そう言って母が取り出したのは、色違いのグラス。なるべく同じにしようとしたけれど、少し模様が違ってしまったのが不満だった。
しかし、両親はそんなことを気にはしないらしい。
「凄いな」
「でしょう」
「天才だな、ナタリーは」
そう言われて、嬉しくない訳がない。ナタリーは満面の笑みで胸を張る。
「お父さん、お仕事忙しそうだから。帰ってきたら、お母さんと二人でおいしいワイン、飲んで」
「母さんと?」
「そうだよ」
「私は、ナタリーと飲みたいな」
「まぁ、酷い」
笑いが弾ける。
「でも、まぁ。ナタリーが成人したら、譲ってあげましょうかね」
「優しいな、母さんは」
「お父さんの望みですからね」
「と、いう事だ」
父が、空の杯を掲げる。
「ナタリーが大人になったら、乾杯しよう」
「うんっ!」
ナタリーの作った、カットグラス。
お父さんは、ずっと大切に持っていてくれた。
明日の乾杯は、このグラスでやる、と言ったグラス。
まさか、まだ使っているとは思わなかった。あんなに古ぼけて、惨めなグラス。全く価値の無いものを、後生大事にしているだなんて、信じられない。
そういえば……
亡くなった時に譲り受けたお母さんのカットグラス、どこに置いたっけ。
ねむれ ねむれ 愛しい子
ねむれ ねむれ 母の胸に
「ナタリー……」
大好きだった人の声で、ナタリーは目を開けた。今はどうだろう? 今も彼が好きだろうか。
考えたこともなかった。
「父さん?」
ぼんやりと彼女を抱きかかえている小柄な父を見る。なんで、わたし、こんな所にいるの? 父さんはどうして泣いているの?
「ん?」
何かがおかしいことに気づいた。
「えっ……あれ? 父さん? な、な、なんでぇっ!?」
思い出した。すべての企みがばれたこと。その上で、父が毒を煽った事。
あの小汚いグラスが床に落ちて。
父さんも、崩れ落ちて…………いない?
「あれじゃ、死ねねーよ」
呆れた声が降ってきた。見上げると、濡れ衣を着せようとしていた冒険者が二人を見下ろしていた。
「どう言う事?」
ナタリーの問いに、ベルドは肩を竦めて答える。
「あの草。半分は正しいけど、残りはよく似た別の草だ」
それも、得意扱いの難しい薬草が全て別物になっていた。中には、本物よりも入手が難しいものもあって、よく集めたものだと感心させられる。それらは、味はともかく、口に入れても無害な草だ。本気で飢えたら、食用として検討できるものである。あれでは、どんなに混ぜても毒にはなり得ない。
あの中身がナタリーの求める物と違うことは、最初に厨房をのぞき込んだ時に、わかった。本当に、あそこには怪しい『者』は居ても、怪しい『物』は無かったのだ。
恐らくアドルは最初から知っていた。集めたのが、彼の仲間だから。もしかしたら、彼の指示かもしれない。だから、アドルは藍の袋の在り処だけ確認したのだ。
「どうだった、味は?」
銀髪の色男がやってきて、楽しそうに聞く。ヴィクトルは、思いっきり顔をしかめた。
「今まで味わったことのない味でしたよ。死ぬかと思いました」
「え……」
領主の一言に、依頼と違う物を堂々と渡して報酬を全額求める図々しさを持つ者とは思えないくらい、色男は狼狽えた。
「そ、そんなに酷かったか?」
「倒れたのは、半分本当ですよ」
「す、すまない。味見をしている暇がなかったんだ」
本当に申し訳なさそうに謝る。ベルドより大きい男の背中が、驚くほど小さく見える。
「……つまり」
やり取りを聞いていたナタリーが、口を開いた。
「演技?」
ナタリーの問いに、領主と色男が顔を見合わせる。フロランとローゼも、困ったように顔を見合わせていた。その様子だけで、ベルドは理解する。彼女の企みは、すべて領主に筒抜けだったのだ。
「すまないね」
ヴィクトルが、柔らかな笑みを浮かべて、娘の頭を撫でる。
「………………」
ハメられたと怒るか、子供扱いをしないでと手を振り払うか。ベルドも固唾を呑んで彼女の反応を待った。
「よ、良かったぁ……」
そのどれでもなかった。
ナタリーは、父に抱きついて、わんわんと泣き出した。
「フロラン、ローゼ」
抱き合う親子をホッとした様子で眺めている二人を、アドルが呼ぶ。彼は、ちょっと離れたところで、壁にうつかって立っていた。まるで、もう、自分の出番はないとばかりに。
「時間、稼げる?」
「時間?」
「パーティの開始時間だ。客が不審に思わないよう、時間を稼げるか?」
あ、と二人は声を上げる。
「いってきます!」
すくりと立ち上がって、二人は並んで駆け出した。会場は、時期領主とその伴侶に任せればいいだろう。そう思わせる頼もしさが、大人し気な二人の背中から感じられた。
ナタリーが、泣きじゃくりながら、語る。
母が亡くなってから寂しかったと。でも、どうすればいいのか分からなかったと。寂しさを紛らわせるためと父が連れて行ってくれた屋敷は面白くなかった。ローゼはいい子だけど気が合わなくて、イライラした。一家の中にいきなりやってきた従兄弟、フロランと父が仲良かったのが面白くなかった。自分と父との関係が上手く行っていなかったから、フロランが羨ましかった。
「そうか、そうか……」
父は、ただ、ただ相槌を打つ。
彼女には、そういう時間が必要だったのだ。
ずっと一緒にいた母が亡くなって、父は仕事が忙しくて。甘えん坊の一人っ子は、甘える時間を奪われた。自分が甘えん坊だと知らなかった少女は、奪われたものを知らずにその空虚だけを感じていた。
寂しい。
面白くない。
イライラする。
足りない何かを埋める為に、やりたい事をたってみた。でも、何をしても、何をしても、満たされない。
ねえねえ、聴いてよ――わたしのお話。
意味のある言葉、ない言葉、全てを吐き出して、ナタリーは静かになった。
それを見計らって、フェイスがヒオリの背中をそっと押す。彼女は親子の前に出て、杯を差し出した。ヴィクトルの、カットグラスだ。
「ちゃんと、洗ったよ」
「それは、どうも」
ヴィクトルが苦笑して受け取る。中身は彼女が選んだ甘い果実酒だ。甘えん坊の娘と、甘い親に丁度良い。
「仲直りの、乾杯だ」
そう言って、ベルドは色違いのカットグラスをナタリーへ差し出す。ヒビの入った、薄汚れてしまったグラス。
「これはっ!?」
親子は驚愕してそれを見つめる。
「お母さんの、カットグラス……一緒に作って、あげた」
ナタリーは、ヒビの入った古いグラスを手に取り、ベルド達を見上げた。
「どうして……ここに」
「アンタの横に。家出してから、ずっと一緒だったじゃないか」
「えっ!?」
ベルドから受け取ったグラスを、ナタリーはまじまじと見る。
「あの料理長だよ」
そう。ベルドに倒された厨房のボスは、ベルドの予想に反して人に戻らなかった。あの、美しい姿すら化けた姿。
魔物が倒れた先にあったのは、カットグラスだった。
それの客観的な価値をベルドは知らない。だが、あの男の異常なほどの美しさは、確かにカットグラスの美しさからきていた。
「割れていなくて、良かった」
個人的な感想を言えば、この一対の杯は綺麗だと思う。結構好きだ。
「もしかして、守ってくれていたの、わたしを?」
「それは、良く捉えすぎじゃねーか」
罠に引っかかったのがたまたま作成者だっただけで。この魔物の言葉を信じるなら、彼女の前に9人も『永遠の恋人』を作っている。
「いいや」
ヴィクトルが、カットグラスのヒビを撫でる。
「十分守ってくれたよ」
「……そうかな」
「一人で街の外に飛び出した娘が、無事に帰ってきたんだからね」
結果的にそうだったとしか思えないが、本人たちがそれで満足しているのであれば、良いのだろう。ここで否定するのは、無粋と言うものだ。
ヴィクトルが顔を上げる。ピッタリとくっついたナタリーと目を合わせて、二人は穏やかに微笑み合う。おめでたい親子に、ベルドは軽く肩を竦めた。
「乾杯」
おめでたい親子は、笑顔でお揃いの杯をかかげた。二人は仲良く杯に口をつける。中には、甘い甘い果実酒。
それと――
「うっ」
「ぶっ!」
父娘は仲良く同時に噴き出した。
ベルドは、にやりと片側の唇を引き上げて笑みを作る。
杯を洗いはしたが、その後に再びあの毒薬もどきを入れていないとは、誰も言っていない。
「俺達をはめてくれた罰だ」
笑い声が弾ける。
アドルが壁に背を預けた状態で座り込み、腹を抱えて爆笑していた。