渓谷の街 6
ヒオリは、ベルドの様子を気にしながらフェイスと一緒に庭を歩いていた。
アドルと、貴族たちが談笑している。アドルの後ろに立っているベルドは、まるでアドルの護衛の様だった。その彼がとても戸惑っているように見えて、少し心配になる。
間もなく、領主達はその場を去った。その後を、アドルとベルドが追う。いや、見えたままに言えば、去っていく領主一行にアドルが当然の様に付いて行き、その後を慌ててベルドが追っている。
領主が去ると、再び会場は談笑する声で溢れた。先ほど一緒に話していた貴族の婦人達が、それぞれの夫と一緒に伯爵夫妻へ挨拶している。
ヒオリは色々な人と話をした。昨晩、ベルドと参加者リストを見ながら、気になるな、と言っていた人とも、そうでない人とも、万遍なく。
ころころと人を変えて談笑するのが、この国のパーティなのだろうか。他の人たちも、色々な人と話をしては別れ、を繰り返していた。おかげで、二人が色々な人と話をしていても、誰も不審に思わない。
不思議と恐怖はなかった。最初の人たち以外、貴族ではなかったからかもしれない。ヒオリは相手が普通の人なら、大体の人と仲良くなる事ができる。
フェイスは聴き上手だった。にこにこと話を聞いて、要所要所で質問をしたり、意見を言ったりする。あの穏やかな口調で話を合わせているように見えて、自分の求める話題へと誘導しているのが凄い。
「退屈な話ばかりですね」
二人きりになった時、フェイスがポツリと呟いた。
「退屈?」
ちょっと意外な言葉だった。彼女は誰の話でも、にこにこと楽しそうに聞いていたから。
「はい。皆様のお話は面白いです。でも、もっと、こう、心ときめくような話があってもいいじゃないですか」
「えっと……情報を集めている……んだよね?」
「そうですよ」
フェイスは当然だ、と言わんばかりだ。いや、当然じゃないと困るのだが。
自分たちは、ここに遊びに来たわけではない。仕事に来たのだ。金を貰う以上、仕事には真摯に向き合うのが、エルビウム夫妻の信条である。
「アドルちゃんの持論なんですけどね『一つの手段に複数の目的があってもいい』って」
「……ベルドが良く言うよ。『ニトオウモノハイットヲモエズ』って」
「そういう考え方もありますね。でも、二匹のウサギがずっと同じ道を逃げるのなら、両方追ってもいいんじゃないですか?」
「そうなのかな……そうかも」
同じ方向に逃げているのなら、どっちかを追っているつもりでも、結局どっちも追っている事になる。
「大事なのは、二匹のウサギが別々に逃げた時、どちらを追うかちゃんと決める事です。決めないで両方追おうとするから、両方に逃げられるんですよ」
「……そうなのか」
難しい。
「わたくし達は、依頼のために話を聞いています。でも、せっかく話を聞くのでしたら、面白い話も聞きたいと思いませんか?」
「うーん」
ヒオリは、面白い話よりも、仕事につながる話が聞きたい。
「ヒオリちゃんには、まだ早いのかしら……」
唸るヒオリを見ながら、フェイスは呟く。
「でも、わたくしはこのくらいの年齢には、そういう事が大好きでしたが……性格の問題? それとも、きっかけの問題?」
フェイスは何かぶつぶつと言い始めた。恐らく独り言なのだろう、いつもヒオリに語りかけるような明確さが無い。
「あの……フェイスさん?」
「あ」
フェイスは、ヒオリに呼ばれて口と目を真ん丸にして、間抜けな声を上げた。
「いや、気にしないでください」
慌てた様子で、取り繕う。なにか、深刻なことを考えていたのだろうか……
「大丈夫?」
「大丈夫。大丈夫ですから……あ」
フェイスが逃げるようにヒオリから視線を逸らす。そして、逸らした視線の先に、釘付けになった。
「……なんで、あの人」
「フェイスさん?」
フェイスの雰囲気が、変わる。いつもの柔らかいものではない、ピリッとした空気を彼女はまとった。まるで、敵にあった時の様な緊張感だ。釣られてヒオリも戦闘態勢に入る。
「ちょっと失礼」
フェイスはそう言って、こわばった雰囲気のまままっすぐに歩き出した。ヒオリは慌てて後を追う。一人残されるのは、流石に嫌だった。
フェイスは、テーブルの一角でワインを傾けるくすんだ赤髪の中年男性の元へと向かった。
人間だ、普通の。
ヒオリは警戒を解く。
「お久しぶりです。コンラートさん」
フェイスはのんびりとワインを傾けている男の真正面に立った。この名前はリストにあった。ベルドが挙げた容疑者の一人だ。挨拶の内容から、二人は初対面ではないらしい事がわかる。しかし、フェイスの様子から見て、友好的な間柄、と言う訳ではなさそうだ。
「……おや、あの時の冒険者さん」
「貴方がいらしていたとは」
「そりゃ、呼ばれたからですよ」
グラスを純白のテーブルに置き、コンラートは余裕の笑みを浮かべる。フェイスのギスギスした態度と対照的に、彼はあくまでゆったりとして友好的だった。
「ヴィクトルさんが、貴方を呼ぶとは思えません」
「呼ばれたものしか来れないパーティですよ、これは」
「どんな手段を使ったのです?」
ヒオリはここに来て知った事だが、このパーティは、招待客の付き添いとしてなら招待状が無くても入れるらしい。招待者の家族や従者と言った人がこの会場にはいた。あらかじめ申告しておく必要はあるらしいが。
「何もしていませんよ。疑われているなぁ……なんなら、ヴィクトル様に直接聞いてください」
「……いえ、結構です」
フェイスは琥珀色の瞳に不穏な色を湛えたまま、瞳を閉じて息を吐いた。
「不審に思うのは無理もない」
コンラートは苦笑を浮かべる。
「前領主のヘンリック様にあたしは懇意にしてもらっておりましたからね」
「彼が集めた金は、殆ど全て、あなたの扱う商品に変わっていました」
「そりゃ、しょうがない。この田舎ですから、あの方が求める商品を扱うだけの力のある商人など、そういない」
「そうですね……あなたは、商売をしただけです」
フェイスは目を細めて、街の有力商人を見据える。
「今は、どうなんですか?」
「今?」
「領主がヴィクトルさんに変わって、あなたは上客を失った訳ですが……」
「なにをおっしゃいたい?」
「売り上げが落ちて、困っておられるのではないか、と」
ヒオリは、フェイスが彼に話しかけた理由をここで察した。
彼は、前領主の散財により利益を得た少ない者の一人なのだ。つまり、領主が変わることにより、今まで得た恩恵を失ってしまった人だ。それを恨みに思い、何か良からぬ事を企んでいるのではないか、と彼女は考えたのだ。
ベルドも同じことを言っていた。だから、彼は容疑者なのだ。
しかし、それにしても。
「また、直球な言い方ですな」
商人は苦笑する。
ヒオリも同感だ。今までのフェイスと違って、言い方が直球過ぎる。フェイスは今まで、聞き役に回って、要所要所で舵を取りながら自分の求める話題へと導いていた。今回は、最初からその方法を放棄している。
「わたくし、商人と腹の探り合いをしながら話ができるほど、陰険ではありませんから」
しかも、言動が厳しい。
どんなに鈍い人間でもわかるだろう。フェイスは、この商人を嫌っている。そして、それを隠す気もない。
だからだろう。腹の探り合いを得意とする商人は、苦笑を浮かべ続けている。
「相変わらず清廉なフェイスさんに敬意を表し、まっすぐに答えましょう。確かに以前より利益は落ちました。しかし、それは想定済みですよ」
「想定済み?」
「あんな金の使い方、長く続くわけがない。いつか破滅するであろうことくらい、三手先を読める者ならわかります」
「破滅することを分かっていながら、止めなかったのですね」
それが、フェイスが彼を嫌う理由なのだろう。僧侶である彼女には、破滅へ向かう人を止めるどころか、助長させて平然としている彼が、許せないのだろう。
「破滅するのであれば、さっさと破滅すればいいんです。商人の甘言に簡単に乗るような者が領主であることが、領民の不幸なんですよ」
「あなたもその領民なのに?」
「領民だからです。あたしが忠告せず、言われるままに取引を続けたから、ヘンリック様は信頼する執事頭に裏切られた。あたしが思うよりも早く破滅しましたよ、あの方は。おかげでこの地の打撃は軽かった――1年でこんなパーティが出来るくらいの余剰な収入を得られるくらいに」
この人のいう事も、間違っていない。そう言う考え方もあるのかと、ヒオリは感心した。
「屁理屈をっ……」
しかし、フェイスはそう思えなかったらしい。
「一応言っておきますが、ヘンリック様がウチで買った物をほぼ売値で買い戻したのもあたしですからね」
「それは、アドルちゃんに釘を刺されたからでしょう」
「そうですね。あの子は恐ろしい」
コンラートはそう言って、楽しそうに笑う。
「刺された釘を抜くことはしていませんよ。あなたもご存じでしょう」
「……知っています」
フェイスは悔しそうに頷いた。
「前領主が買ったほとんどの商品が、あなたの店のものだったから、領民から搾り取って使ったお金を殆ど取り戻せたことも知っています。だからこそ、1年足らずで、ここまでこの街が良くなったことも、理解しています」
「だから、あたしはあの時なんのお咎めもなかった。そして、今日ここに呼ばれた」
「………………今も、城と取引を?」
「ええ。これでも、この街一番の店ですからね。特に、娘さんには贔屓にしてもらっています」
「ナタリーさん?」
初めて出てきた。ナタリーの名が。
「そうですよ、お嬢さん」
裕福な商人は、目を細めてヒオリに向かって頷いた。
「あの時はいなかったのですけどね。ヴィクトル様が領主になってから間もなくして、戻って来たんです」
「戻ってくるまで、その方は何をしていたのですか?」
フェイスの雰囲気特徴から棘が消えた。
その変化に、コンラートは嬉しそうに微笑む。フェイスは彼を嫌っているが、彼はフェイスの事が嫌いではない様だ。どんな人の破滅も許せない、救いたがる僧侶らしいところを、好ましく感じているのかもしれない。
「家出していました」
「家出!?」
フェイスと、ヒオリの声が重なった。
「二、三年前かな? 田舎のこの街が嫌いでね、街を飛び出したんですよ、ナタリー様は」
「なんで戻ってきたの?」
「父親が領主になったからじゃないですかね?」
「偉くなったから?」
「えぇ。貴族になりましたからね。そして、土地と爵位は基本的に世襲制です、今回のような例外が無い限り。そう考えれば、一人娘の彼女は、後継者になりますからね」
「だから、後を継ぐために戻ってきたの?」
「……そのつもりで帰ってきたのかもしれません。でも」
「でも?」
フェイスが、いつもの相槌を打つ。フェイスが興味を持ったのが嬉しいのか、商人は勿体を付けて、ゆっくりとしゃべりだした。
「彼女が帰ってきた時、後継は決まっていました。従兄弟のフロラン様です」
「あ……」
ナタリーが従兄弟を語った時の様子を思い出す。『愚物』と彼女は従兄弟を評した。あの時の様子から考えると、彼女は、後継が自分ではなく従兄弟のフロランであることに、納得していない。
「しかし、それも建前」
「建前?」
「ヴィクトル様は、領主と貴族の地位をエッケナー家へ、返すつもりです」
「エッケナー家という事は、ローゼさんですか」
フェイスの問いに、そう、と頷く。
「ローゼさんって?」
ヒオリの問いに、フェイスが答える。
「前の領主の娘さんです」
それなら街のでの情報収集で知った。今、ヴィクトルの元で幸せに暮らしていると言う。
「当時、領主の娘ローゼさんと、執事頭の甥フロランさんは恋仲だったんですよ」
フェイスがとろけるような笑みで答える。
「本当は、こちらをベースに物語を作りたかったのですが、人は、ロマンスよりも英雄譚を求めていたから、作れませんでした。残念です」
「作る? 物語?」
「二人は、婚約しました」
コンラートが、今までと違う種類の苦笑を浮かべながら、言う。まぁ、とフェイスの声が跳ね上がった。
「おめでたい事です。あぁ、そうなんですね……ちゃんと、彼は……」
フェイスは両手を胸の前で組み、幸せそうな笑みを浮かべている。何となく話しかけ辛くて、ヒオリはコンラートに聞くことにした。
「ヴィクトルさんは領主になったけど、それは一時的なもので、将来は前領主の娘さんに領地を返すことになっているって事?」
「彼はそういう条件で貴族になったわけではありません。でも、あの方はそうすべきだと考えています――自分は、この地を一時的に預かっているだけだと」
そういう方なんですよ、この街の英雄は。
コンラートの言葉には、いくらかの親愛と、誇りが感じられた。少なくとも、彼は領主を恨んでいるようには見えない。
「もっとも」
コンラートは話を続ける。
「ナタリー様は、その考えに、納得していない様ですが」
ヒオリは頷く。
しかし、彼女は、ここまで知っているのだろうか。父の思惑を知った上で納得していないのだろうか。それとも、単に従兄弟に地位を取られるのが嫌なだけなのだろうか。
「ただ、あたしがヴィクトル様の右腕なら、絶対に彼女を後継にしてはいけないと進言しますね」
「……不穏な言い回しですね」
どこかを見つめて何かを考えていたフェイスが、戻ってきた。話は聞いていたらしい。
「理由を聞いても?」
「ナタリー様のお金の使い方は、ヘンリック様を思い出させます」
商人の一言に、ヒオリとフェイスは顔を見合わせた。
「知っていたら教えていただきたいのですが」
別れ際に、フェイスが大っ嫌いな商人に教えを乞う。彼女を気に入っているコンラートは、どうぞと嬉しそうに促した。
「このパーティの発案者をご存知ですか」
「ナタリー様ですよ」
あっさりと答えが返ってきた。
「こういう派手なことを考えるのは、あの家でナタリー様くらいですね。ローゼ様はあのヘンリック様の娘とは思えないくらい質素な方だ」
「もう一ついいですか」
「どうぞ。あなたに頼られるのは、嬉しいねぇ」
素直に喜ばれて、フェイスは顔を歪ませる。不本意だ、と言わんばかりの口調で、彼女はいくつかの薬草の名前を挙げた。
「こいつは、こいつは……」
ヒオリが知らない物もあったが、商人はさすがにわかっているようだ。笑みを潜めて、彼は言う。
「これらの薬草は、在庫にありますか」
「あるけど、決してその組み合わせでは売らないですね」
「ナタリー様でも?」
「商人は信頼第一です。そんなものをぽいと売ったと知られれば、今まで築き上げてきた信頼を失うことになってしまうじゃないですか。目先の利益ばかり追っている商人は、すぐに滅びるというのが、あたしの持論ですよ」
話は終わったとばかりに、フェイスは形だけの礼を言い、商人に背を向けた。
「一度、合流しましょうか」
並んで歩くヒオリに、フェイスはいつもの柔らかい調子で言う。ちょっとほっとした。
「でも、ベルド達、お城の中に入っちゃったよ」
「追いかければいいんです。それに……」
「それに?」
「ベルドさんが、怒っていそうなので」
ヒオリは、驚いた。
「ベルドが、怒る? 誰に? なんで?」
会場内に、彼が怒る要素は見当たらない。
「ヒオリちゃんは心が広いんですね」
「?」
フェイスの言いたいことが、よく解らない。
「わたくし達は、ヴィクトルさんと知り合いです」
「うん、わかったよ、それは」
いろいろな人との会話を聞いていて、そんな気はした。コンラートとの会話で確信した。
「ほら、やっぱり、ヒオリちゃんは心が広い」
フェイスが嬉しそうに言う。ヒオリには、なにが『やっぱり』なのかわからなかった。
でも、ベルドの怒る理由はわかった気がする。でもそれは、アドルにではない。その事に気付けなかったベルド自身に怒っているのだろう。
ヒオリの予想は正しかった。
ベルドは怒っていた。大切なことを言わなかったアドルに対してではなく、それを知ろうとしなかった不甲斐ない自分に。
領主親子とその許嫁は、ベルドに同情の眼差しを向けながら城の中へと去って行った。ベルドとアドルは、城に入ったすぐの廊下で、彼らを見送る。天窓と大きく開いた窓から光が差し込んで、彼らの行く道を照らしている。しかし、窓から差し込む光は、自らが照らした場所以外に、深く濃い影を作っていた。
窓の脇の影に立って領主たちを見送っているアドルの小さな背中へ、ベルドは声を掛ける。
「……なんで、言わなかった?」
「なにを?」
怒りの中から絞り出した問いに、アドルはあっさりと問い返した。
「お前らが、この街の英雄譚に出てくる『冒険者』だって事を」
彼らの話を聞いていれば、わかる。ヴィクトルが領主を追い出すために協力を求めた冒険者が、この若い二人が居るパーティだという事を。
アドルはゆっくりと振り向いて、小首を傾げた。
「なぜ、聞かれてもいない自分の事を話す必要があるの? 君達も、自分の事ほとんど話していないじゃないか」
「だが、この街にとって重要なことだ」
「そうかな?」
アドルはさらに首を傾げる。
「重要じゃないだろう。だから、ベルドも英雄譚に出てくる『冒険者』に関して調べようとしなかった。あんなの、ギルドで聞けば一発でわかったのに」
「うっ」
確かにそうだ。物語に冒険者が出てきたのは知っていたが、それが何者なのか調べようとは思わなかった。なぜなら、彼らはベルドの仲間になり得たとしても、ベルドの探している暗殺者であるとは考えられなかったからだ。
実際、ベルドの考えは正しくて、物語に出てきた冒険者は、ベルドの仲間となり、今、目の前に立っている。
しかし、なら、なぜこんなに腹立たしい?
「お前達は何者なんだ?」
「今更の質問だ!」
驚きで上擦った声が聞こえる。逆光と闇の中で彼の表情を見るのは難しいが、驚いているようだ。
しかし、驚くだけで、ベルドがいくら待っても彼はそれに答えない。
「……本当の目的はなんだ?」
沈黙は無駄なだけだと悟り、ベルドは質問を変える。
「君たちと一緒に仕事がしたいと思ったのは本当だよ」
今度は、答えが返ってきた。
「同時に、せっかく成功したこの街の革命を、暗殺と言う手段で頓挫させるわけにもいかなかった」
だから、必要な情報は積極的に提供したと、彼は言う。確かに、彼らが提供してくれた情報は、今回の仕事に必要なものだ。
「ヴィクトル殿達は、革命に成功した。だが、それだけでは意味が無い。新たに始まった施政が、良いように運んでいかないといけない」
「それは、わかる」
旧体制を壊すだけでは、物事は何も変わらない。壊した後に、新しい世界を作り上げなくてはいけない。だが、それを知って革命を起せるほど、先見の明を持った者は少ない。それゆえ、殆どの革命は失敗し、歴史の波に飲まれて消え去っていくのだ。
「新しい治世が円滑に滑り出せるように、私達は詩をプレゼントした」
「あの、英雄譚……」
「そう」
アドルは一歩動いて光の中に現れた。悪びれもせず、自慢することもない彼の瞳は、凪いだ湖面のように静かだった。
「フェイスなんかは、フロランとローゼのロマンスを軸にしたかったようだけど。あの時必要だったのはロマンスではなく英雄だったから、領主に焦点を置いた物語を作った」
「捏造か?」
鋭い視線で睨んで聞いたら、疑われたものだ、と苦笑を浮かべた。
「残念ながら、殆ど事実だよ。多少の脚色はしているけどね」
「――超重要人物じゃねーか、お前ら」
ふん、とベルドは鼻を鳴らす。
改めて裏をとる手段はないが、領主たちとのやり取りや今までの彼らの行動から考えれば、矛盾しない。信じてもいいだろう。
彼らは、物語に出てくる冒険者だけではなかった。街の人々が自慢げに歌う英雄譚の作者だったのだ。
正体が分かれば、頼もしい仲間だ。すっきりしても良い筈なのに、不快感が残る。説明できない腹立たしさに困惑しながら、ベルドは質問を続けた。
「あの革命の立役者の一人だから、伯爵様もお前に対して遜ったのか?」
「あ、それは別」
「別?」
「私は聖王の甥っ子だから。グラウス家は、公爵家」
「は――?」
嘘だろ?
ベルドは目を真ん丸にして彼を凝視する。確かに、貴族の前での立ち振る舞いは自然なものだったし、礼服を着た姿に違和感が無い。男装の令嬢にしか見えないが、決して服に着せられているようには見えなかった。つまり、服に見合った品があるという事だ。
しかし、ヒオリは彼を見て怯えない。たとえ身分を隠していても、貴族として育った者に対して、必ず警戒心を抱くヒオリが、アドルの前ではいつも通りだった。
「そう言えば、納得する?」
ちょこん、と首をかしげて聞いてくるアドルが浮かべる笑みに、それが冗談だという事を知る。
「……ふざけるなよ」
「ははは!」
ベルドが凄んで見せたら、アドルに笑い飛ばされた。
「伯爵との関係は、私の個人的なものだ。今回の件とは、全く関係ない。それだけは、断言しておく」
「そうだとしてもな……」
アドルの意見は、理解できるが、納得し難い。
この気持ちをどう表現すればアドルに伝わるのか。言葉を探していたら、一条の光が差した。
「水臭い、と思われているんですよ、アドルちゃん」
扉がゆっくりと開いて、二人の少女が姿を現した。フェイスが抑える扉の隙間から、ヒオリが飛び出してベルドに体当たりする。
「ベルドっ!」
「ヒオリ、大丈夫だったか?」
うん、とヒオリは満面の笑みを浮かべて頷く。その頭を、いつもよりも優しくなでた。銀色の髪と藤色のリボンが、ふわふわ揺れて、彼女の頬をくすぐる。ヒオリは小さく笑い声をあげた。
「水臭いって、どうして?」
アドルは、理解できないと言った様子で、フェイスに尋ねる。
「それだけ、わたくしたちに対して仲間意識を抱いていただけた、という事です」
「昨日会ったばかりで、そこまで知ることが出来るわけないじゃん。知る必要もないし」
「理屈じゃなくて、感情の問題です。ですよね?」
「そうだな。腹が立ったのは、確かだが、なんでかと聞かれれば……」
考えてみれば彼女のいう事は正しい気がした。
アドルが言うとおり、別にアドル達がここで英雄譚を作ろうが、伯爵様と顔見知りであろうが、関係ないと言われれば関係ない。しかし、それが腹立たしかったのは、それだけ彼らに対して仲間と言う気持ちが強かったのだろう。
「仲間の事なのに知らなかったのが許せなかったのかもしれない」
仲間なのに、教えてくれなかったことが腹立たしかったのかもしれない。
ただ、それがすべてとも思えない。そもそも感情は、理性にとって理不尽なものだ。理屈で語れるものではない。
「ふーん?」
アドルは首を傾げたままだ。その様子にフェイスが苦笑している。
あ、一つ分かった。
「アドル、お前」
「なに?」
「割り切れないこと、苦手だろう?」
ヒオリの我儘の時もそうだ。彼は、言葉で説明できない感情を理解することが出来ない。出来ないから不機嫌になるのだ。
「なんで、そこでそういう結論になるんだ……」
にやにやと笑いながら聞けば、アドルは不本意そうに細い眉を寄せてふくれっ面になった。
「割り切れない事は、嫌いじゃないよ。そういう事があるから、面白い。ただ……」
「ただ?」
「理屈が通用しない相手が、苦手なだけだ」
むっつりと言うアドルを見たら、ベルドの中の怒りが消えて、ちょっとした優越感と満足感が芽生えた。