渓谷の街 8
厨房から、音が消えていた。忙しなく動き回っていた料理人たちは足を止め、火を扱っていた料理人は鍋を火からおろす。残り火がぱちぱちと燃える音と、遠いパーティの喧騒だけが聞こえる。
「なんで、わかったの?」
冷たく静かな声でナタリーは聞いた。紫の瞳は昏く、それでいて烈しい。初めて会った時の怒声とも、従兄弟について語った時の静けさとも違う。どこか退廃的な色。これが、彼女の本性なのだろうか。
「何ていうかさ、平和なんだよな、このパーティ」
「平和?」
あぁ、と頷く。
「殺気が無さ過ぎるんだよ……あんたの周辺以外でね」
「そんなものが、判断材料?」
「冒険者の直感って、案外重要なんだぜ」
それでも、アドルの情報が無かったら、暗殺の話は単なる噂と結論付けただろう。あの情報があったから、暗殺計画が限りなく本当であるらしいと判断できたのだ。だから、候補から外して考えることもしなかった依頼人が怪しいと気付けたのだ。
「後は、来客から話を聞いて、な」
そこまで言って、ベルドはヒオリに視線を向ける。彼女は頷いて、正面にいる貴族の娘へ隻眼を向けた。
「このパーティを開こうって言ったのは、ナタリーさんなんだよね」
「そうね」
ヒオリの問いに、ナタリーは頷く。
「この街が嫌で家出して、お父さんが貴族になったから帰ってきて、お金沢山使って買い物しているって聞いた」
「次期領主が自分ではなく、従兄弟である事に、不満を持っていたともな」
「当然でしょう。領主の娘は私よ。あの惰弱野郎は、息子じゃないわ。甥でしょう!」
「最終的に、前領主の娘に爵位を返上しようと考えていたことも知っていたな――それが、まだ公にならないうちに領主を殺し、どさくさに紛れて爵位を得ようとした」
「後継者をまだ明言していないうちなら、子供であるわたしが男爵でしょう?」
ナタリーは悪びれない。それが、当然の権利だと信じている。
「領主を殺して、俺たちを犯人に仕立て上げようとしたか?」
「あら」
ナタリーは目を見開いた。
「そこまで分かったの?」
いや、とベルドは首を左右に振る。
「今話していて、そう思った」
自分が犯人の暗殺計画を阻止させるために冒険者を雇うのはおかしい。おかしいから、なぜ雇ったのか考えるのは当然だろう。
考えてみれば、ベルド達がナタリーの依頼で暗殺計画を阻止するためにここに居る事を、誰も知らない。ナタリーが知られない様に釘を刺したからだ。二人がここに居る理由を知る彼女が、二人を不審者だと言えば、彼らは一瞬でそうなっただろう。
だから、パーティにふさわしい格好してきた時に彼女は驚いたのだ。協力者が居る事に、不満を示したのだ。彼女は、この依頼自体を知られたくなかった。ベルド達が、この場で浮いた存在であってほしかった。
だが、ではなぜ。
「一つ気になるんだが……」
「なに? もう隠さないわよ」
開き直った女は強い。
「なんで、正式にギルドへ依頼したんだ? 履歴、残るぞ」
「え? そうなの?」
「は?」
聞かれて、逆にベルドは戸惑う。
「だって、お前。薬草集めはギルド通さなかったじゃないか。あれ、足がつかないためだろう?」
「それは、彼に任せたの」
ナタリーは、料理人とは思えない屈強な男を指す。なるほど、らしくないはずだ。彼は元々、冒険者かそれに近いならず者だったのだろう。
「あの毒のつくり方は有名だけど、材料をそろえるのは大変じゃない」
「そうだな」
集めた本人が、しみじみと頷く。
今更だが、いきなり現れて、当然の様のここにいるあの二人は、いったい何者なのだろうか。
「犯人役は誰でも良かったの。冒険者ならちょうどいいと思ったのよ」
「…………ああ、うん。成程」
なんだろう。
なんと言えばいいんだろう。
「つまりお前は、自由に使う金が欲くて、爵位を欲した。そのために、私を殺そうとしたのだね」
ナタリーの杜撰な計画に絶句していたら、再びこの場にいない声が響く。ナタリーが息をのんだ音が聞こえた。
大柄の男女に守られるように現れたのは、豪華な服に着られた小男。そして、その甥と許嫁だ。
ヴィクトルは柔らかな眉を寄せて、悲しそうに笑う。
「お前は、前領主のような暮らしがしたかったんだね。だから、帰ってきた」
彼は、ゆっくりと厨房の中に入ってきた。
「そ、それは……」
「帰ってきても、その暮らしが出来ないと知ったから、私を殺そうとしたんだね」
娘の正面で立ち止まり、彼は手を伸ばした。
「あっ!」
執事は、さりげなく空いた器を下げる術を知っている。その術を使い、元執事頭は、誰にも知らないうちに机に置いていたカットガラスを手にしていた。
「娘にここまで殺意を抱かれる父は、父として失格だね」
悲しげに、切なげに、領主は微笑んだ。
「せめて、娘の願いくらいは適えてあげるとしようか」
そして、ごく自然に、手にした杯を口にする。
「伯父さんっ!」
「おじさま!?」
小さな身体が、音もなく倒れた。
「……ぃ、いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
全てを震わす、甲高い悲鳴が、台所中に響き渡った。
頭の奥に、甲高い音が突き刺さると同時に、目の前が暗くなった。
不快な音だ。
不安な音だ。
心の奥底から、じわりじわりと黒い感情が浮き上がって来るのを、ベルドは感じた。
Yhaaaaaaaaa……
届かない剣。
叩きつけられた身体。
虚ろに響く、上品で残酷な声。
想いも、誇りも、願いも、全てを潰された、あの時の感情だ。
Yhaaaaaaaaa……
豪奢な照明。
小さな背中につけられた、無数の傷。
全てを見下した、冷徹な瞳。
「しまった」
どす黒い世界に、妙に現実味のある声が割り込んでくる。
手から離れた剣。
差し出した、大金。
心が折れるほどの、大きな挫折感。
「やりすぎた」
この感情の名前を、ベルドは知っていた。
その名は――絶望。
「エド――歌え」
男にしては高く、女にしては低い声が、ベルドではない者へ、命じた。
Yhaaaaaaaaa……
頭の中へ差し込むような音に、広大な大地のような低い音が加わった。奈落の底に無限に広がる大地が生まれる。どこまで落ちても、最後には、大地が全てを受け止めてくれる。
そう、絶望の先に、何もなかったわけではない。
当時持っていた全てを捨てて得たモノは、それだけの価値があった。
ヒオリ。
ヒオリ・ロードライト。
ヒオリ・エルビウム。
大切な。かけがえのない、俺の、宝石。
「姐さんも」
遠くから、あいよ、と声が聞こえた気がした。
Yhaaaaaaaaa……
ずっと響き渡る音に、新たな音が加わる。突き抜ける鋭い刃のような高音を柔らかに包み込み、広大な大地のような低音へと導く、豊かな低い女性の声。
いきなり、目の前を覆っていた闇が消えた。
そこは、ベルドが最大の挫折を味わった、貴族の屋敷ではない。小さな大陸の、小さな国。その中でもさらに小さな渓谷の街の貴族の別荘。その、厨房だった。
「え……」
ベルドは、状況を把握できず、ぽかんと辺りを見回す。
彼の足元に、中年の男が倒れていた。自ら、毒が盛られた杯を呷ったこの街の領主だ。
壁には、様子を見ている料理人たち。殆どが、腰を抜かしている。中にはすすり泣いている者もいた。
そして、倒れた領主を挟んで向こう側にいるのは――悲鳴を上げ続ける、ナタリーだったモノだ。
彼女は、両手を頬に当て、聞いている者まで悲しくなるような悲鳴を上げている。見開かれた瞳は、白目と黒目が反転しており、豊かな藤色の髪は逆立っていた。肌の色が、人の持つそれとは違う。
――やりすぎた。
暗い幻覚の中で聞こえてきた、妙に現実味のあった声を思い出す。
彼女を、追い詰めすぎた。
追い詰めすぎて、彼女を、魔物化させてしまったのだ。
「大丈夫?」
呆然と、変わり果てたナタリーの姿を見ていたら、アドルが覗き込んだ。
「あ、あぁ……だが」
「あの手の魔物が得意の、絶望の魔法だ――今、エドと姐さんが中和している」
「エドと、姐さん? ……誰だ?」
問うと、アドルは視線で示す。対角線上に現れた二人の冒険者。いきなり現れて、当然の様にそこにいた二人。
彼らは、歌っていた。
厨房を支配する悲鳴をよく聞くと、その音の下にどんと構える低い男の音が聞こえた。さらに耳を澄ませば、その間にももう一声。
あぁ。絶望の響を受け止め、包み込んだ、広大な大地と、豊かな風だ。
そして。
――エド、歌え。
――姐さんも。
命じた声の正体を知る。
「アドル?」
「彼女は、私達が何とかする」
「私達? 誰と誰だ?」
ベルドの質問に、アドルはきょとんとした。
「……察していると思ったんだけど」
アドルは意外だと言う表情を隠さない。
「彼らは私たちの仲間だよ」
「はぁ?」
本日何度目の驚愕だろうか。つまり、なんだ。あの事務員とは最初からグルだった、と? あの薬草を集めた色男とは、仲間だった、と?
「今更の話に、これ以上驚くな」
しかし、アドルはベルドが十分に驚く暇を与えなかった。
「ナタリーは、私たちが何とかする。きっと、まだ間に合う。だからベルド、君達は、残りを頼む」
「残りって……」
やはり、知っていたか。
「君達にはフェイスを貸す。最低でも私達の邪魔をさせないで欲しい」
「あ、あぁ」
何をするつもりなのか興味はあるが、ベルドは頷いた。確かにあれも、放置しておくわけにはいかない。
「あと」
アドルは、ベルドの背後へと視線を移した。
「ヒオリが戻ってこない。どうにかしろ」
「!」
ベルドは弾かれた様に顔を上げる。
「ヒオリっ!」
彼女は未だ、悪夢の中でもがき続けていた。
ベルドはヒオリとフェイスの元へと駆けよる。フェイスは、固く目を閉じ唸りつづけているフェイスの耳元で、何かを呟き続けていた。
「ヒオリ! ヒオリっ!!」
フェイスの腕からヒオリをもぎ取り、最愛の人の名前を叫ぶ。
「目を覚ませ! 俺は、ここにいる。ずっと、お前の横にいるからっ!!」
「ベルドさん」
「煩いっ!」
寄ってきたフェイスを振り払う。悪夢にうなされるヒオリを、人前に晒したくなかった。
彼女の絶望は、深い。
それは、ベルドの比ではない。
「ベルドさんっ!!」
がしっと肩を掴まれた。僧侶とは思えない程強い力に、ベルドは勢いよく振り返った。
「なんだよっ!」
「そんな事をやっている暇はありません。わたくしに任せてください」
「無駄だっ!」
彼女の闇は、誰にも癒せない。ただ、ベルドはその闇も全て受け入れる覚悟を決めているだけだ。
「わたくしは、僧侶ですっ!」
凛とした声に、ベルドは動きを止めた。
「わたくしは、僧侶です。人の心に安らぎを与えるために存在します」
「神……なんて、いない」
「いつ、わたくしが神を口にしましたか?」
首をかしげる少女を、ベルドは改めて見つめた。琥珀色の瞳が、心なしか潤んで見える。彼女は、どこか傷ついたような眼をしていた。
そうだ――あの歌の影響を受けたのは、自分とヒオリだけではないのだ。
なのに、彼女は背筋を伸ばし、毅然と立っている。自分の役目を把握し、それを全うしようとしている。
「……頼む」
ベルドは、震えるヒオリの身体をフェイスに託す。
「一つ、お願いがあります」
「何だ?」
「ずっと、ヒオリちゃんの名前を呼び続けてください」
「……この状況で?」
「はい」
フェイスは微笑んだ。
「一番の薬は、愛する人の声ですから」
面と向かって言われると、恥ずかしい。ベルドは慌てて彼女たちに背を向けた。
この状況――
「最初から、わかっていたぜ」
振り向いた先にいる者に向かって、ベルドは不敵な笑みを浮かべる。
「この厨房の『ボス』は、お前だ、と」
背の高いコック帽をかぶった料理長が、ふわりとほほ笑んだ。
「あぁ、せっかくいい声だったのに……邪魔が入ってしまったよ」
料理長がコック帽を取る。殆ど白に近い紫の髪が流れ落ちた。髪が象る輪郭はすっきり細く、切れ長の黒茶色の瞳がほほ笑んでいる。
ここは、色男の展示場か。
そう毒づきたくなる程度に、綺麗な容貌の男だった。
「この顔で、ナタリーをたぶらかしたのか?」
「たぶらかす? そんなつもりはないよ」
料理長は、穏やかなテノールで語る。
「僕は何もしていない。彼女が勝手に寄ってきただけだよ――まるで、火に飛び込む羽虫の様に」
「それを、利用したんだろう」
わかった。
この男は、アンリエトと同類だ。その容姿に、魔力とも言える魅力を持つ存在。一人故郷を旅立った彼女は、彼に会って、その魅力の虜になった。
「僕は、ちょっと囁いただけだよ。領主になれば、欲しいものが何だって手に入る、って」
男と伯爵夫人の違いは一つ。その力を使って、人を操る意思があるか否か。
「彼女は、飛んで帰ったよ。そして、僕を招いてくれた」
「それで、どうしたかったんだ、お前は」
ベルドの問いに、料理長は真っ赤な唇の両端をゆっくりと引き上げる。妖艶な笑みとしか言いようのない、微笑だ。男にもそんな笑みを浮かべる者がいるのかと、驚かされる。
「彼女の願いをかなえてあげようと思った」
「貴族になる?」
「父を殺せば、跡継ぎは君だ、と」
「そして、彼女を壊して、あちら側へ引きずり込む?」
ふふふ、と男は笑う。
その残酷な笑みを見て、ベルドは確信した。
この男は、光につられて寄ってきた羽虫を、残酷な手段で焼き尽くす事を、楽しんでいるのだ。
「僕に選ばれた、永遠の恋人だよ――しかも栄えある、十人目だ」
「うわっ、十股かよ。男の風上にもおけねぇ」
ベルドの言葉に、男は心外だと眉をひそめた。
「失礼な。これを甲斐性と言うのだよ」
「……俺、お前と永遠に価値観あう気がしねぇ」
「では、拳で語り合ってみるかい?」
思いっきり顔をしかめたベルドに、料理長は嬉しそうにくすくす笑う。
「最初の、男の恋人にしてあげても良い」
――全身に鳥肌が立った。
「お断りだっ!!」
ベルドは言うのと同時に飛び出した。